あの日姿消した妻、どこへ 岡山主婦不明17年

妻妙子さんが行方不明になった当時の苦悩を話す高橋幸夫さん=岡山県津山市

 「車で連れ回されています。6時ごろまでには帰ります」と電話してきた妻が、今も帰ってこない―。岡山県津山市で2002年、主婦高橋妙子さんが54歳で行方不明になり、6月3日で17年がたった。(共同通信=寺田佳代)

 夫で医師の高橋幸夫さん(76)は、あの日からずっと妻の姿を探し続けている。当時は周囲の視線や報道陣によるメディアスクラムにも苦しんだ。やりきれない思いを抱えながらも、少しずつ妻がいない自分の人生を生きようと今日も過ごしている。

 17年前の夕方、幸夫さんが仕事から帰ると玄関が開いていた。出しっ放しの風呂場の水道に、飲みかけのコーヒー。「何かがおかしい」。うろたえていると、自宅の電話が鳴った。「妙子、どこおるん。誰とおるのや」「車で連れ回されています。警察には言わないで」。この会話を最後に、行方不明となった。

 「誰といるか聞いたら電話が切れた。きっと犯人は近くにいて、妙子は覚悟して電話のチャンスをもらったんじゃなかろうか」。幸夫さんは当時を振り返る。慌てる幸夫さんに「安心して」と電話口で話す妙子さんの声は落ち着いていた。

 県警は公開捜査に踏み切ったが、難航。幸夫さんは集団的過熱取材(メディアスクラム)に苦しんだ。自宅のインターホンは鳴りやまず、カーテンを開けて外を見ると、家の前の道路に多くのカメラが並んでいた。妙子さんが姿を消すと同時に、幸夫さんの口座から計約700万円が引き出された窃盗事件への関与が疑われた男女は自殺。「あの頃はマスコミに怒り心頭だった」

 思い出すのがつらくて、とにかく津山市を離れたかった。約4年後に県外へ引っ越したが「冷たい人間」と世間から責められている気がした。情報提供を求めるチラシを配るたび、むなしさと寂しさが募り、自分がみじめに思えた。

 健康保険や選挙の通知が2人分届く。捨てることはできなかった。役所の窓口に相談に行くと、事件を知っているはずなのに「亡くなった証明がない」と言われた。妙子さんへの思いと、目の前にいない現実のはざまで苦しみながら、09年に法律上死亡したものとみなす「失踪宣告」の手続きをした。

 心が不安定になり、何度も死のうと思った。それでも、自宅に泊まり込みで寄り添ってくれた捜査員が心の支えになった。お互いトイレも行かず、自宅の電話の前で犯人からの電話を何時間も待ち、一緒にダムや街中を捜索した。後に県警幹部となったその捜査員とは、今でも交流が続く。

 次第に全国犯罪被害者の会(あすの会、解散)にも顔を出すようになった。「誰もがある日突然、当事者になり得る。犯罪被害者支援の必要性を訴え続けたい」と話す。

 もしあのとき、防犯カメラがもっとあったら。かかってきた電話を逆探知できれば。やりきれない思いはたくさんある。「もちろん今でも、妙子の情報が欲しい」と幸夫さんは寂しそうに笑う。夫婦生活を一緒に楽しみたかったと、生活の節々で思う。花が好きで、地域の合唱団に参加していた妙子さん。機嫌が良いと家でよく鼻歌を歌うお茶目な一面もあった。仲の良い近所の家族で一緒に旅行をした。17年たっても、よく覚えている。「もし帰ってきたら『今までどうしとったん。よう頑張った』と声を掛けるだろうな」

 妻のいない17年は、あまりにも長かった。孤独に震え、寂しさに押しつぶされそうになったこともある。だが、苦しみの時を経た今、幸夫さんは「妻のいない人生を生きる覚悟ができた」と話す。

 これまでは妻を探す人生だったが、次第に妻がいない生活を受け入れざるを得ないと思うようになった。経験したことを多くの人に知ってもらうことが自分にできることだと思い、講演活動にも取り組んできた。昨年からは、新たな居場所として神戸市の診療所でも働き始めた。「自分の人生を生きていかなきゃいけない」。幸夫さんは自らに言い聞かせるように、力を込めて語った。

 津山署によると、これまでに延べ4万5千人の捜査員を投入したが、解決には至っていない。情報提供は津山署、電話0868(25)0110。

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