6月24日は「昭和の歌姫」「国民的歌手」と呼ばれた美空ひばりの30回忌だった。圧倒的な人気は今も衰えず、テレビは繰り返し特番を組み、若い歌手がひばりの持ち歌をカバーしている。
聴きなれた歌を口ずさみながら、ふと思いだすのは、同じ横浜の下町に生まれ育った女剣劇の大江美智子。20代でスターの階段をかけ登りながら、往年のファンにもすっかり忘れられている。各種人物辞典に没年月までは出ているが日付がない。亡くなったのは2005年7月19日。きょうが命日である。
本名は細谷ヤエ、1919年に横浜市南区の足袋職人の娘に生まれた。小学校卒業後、製糸工場で働いていたが、単調な仕事に飽きたらず、自立したいと思っていた矢先、横浜歌舞伎座で初代大江美智子一座の舞台を見た。魂をつかまれ、役者になろうと決意、反対する家族を説き伏せ大阪に一座を追って弟子入りした。
■20歳の娘が座長に
3年後、初代が急死。容姿が似ているところから20歳で2代目を襲名した。古参の座員は若い座長に冷たく舞台でチェッと舌打ちをしたりする。それに耐え特訓で踊りや殺陣(たて)を身につけ、戦時中も興行を続け、戦後、浅草六区の常盤座や松竹座を中心に女剣劇の全盛期を築いた。歌舞伎座の舞台も踏み、56年度の芸術祭奨励賞を受賞している。NHKテレビでも中継され、何度か見た記憶がある。立ち姿が水際だって気品があった。
年齢、性別、階級の異なる複数の人物を瞬時の早替わりで演じるのが得意だった。あるときはきりりとした若侍、またあるときはいなせな侠客(きょうかく)から美しい姫や町娘に変身する。
あたり狂言の「雪之丞変化(ゆきのじょうへんげ)」は、父母の敵を討つために武芸百般に通じている歌舞伎の名女形雪之丞を中心に展開する勧善懲悪物語で、1回の舞台で36回も早替わりしたという。女の大江が男の役者を演じ、彼は女形である。女かと思えば男になり、さらに女に男にと変身し、性の境界を軽々と越えていく。見ているほうは、今目の前にいるのが女か男かわからなくなる。トランスジェンダーが市民権を得た今、改めて見直してもいいのではないか。
■円熟期に舞台去る
東京のコマ劇場や新橋演舞場、京都の南座などの大劇場で活躍していた絶頂期、思いがけない病気に襲われる。台本の字が流れて読めない。緑内障だった。舞台の裏を走りながら衣装を着替える早替わりは、目が悪くてはできない。失明を宣告され、60人余の座員の身が立つようにして引退したのは70年、円熟期の51歳だった。
舞台を去り、眼病を直してくれる医者を探したすえにたどりついたのが、自宅からほど近くに教会を構える新宗教だった。神さまに救いを求め、明るさを取り戻したという。
その後は自宅に猿若流「大江美智子舞踊教室」の看板をあげ、弟子4人とともに踊りを教えたり、人形作りをして過ごし、弟子も家族も含めて信仰に生きた。82年出版の自伝『女の花道』に「本当の神とめぐり会えた…とても幸せです」と書いている。
10年前に彼女のミニ評伝を書くため調べたが、晩年は表に出なかったせいか、地元新聞にも訃報が見当たらない。その頃はウィキペディアにも記載がなかった。
新宗教の教会に問い合わせて遺族の連絡先を教えてもらい、おいの細谷保さんと、一番弟子だった大宮寿美さんに取材した。引退後の暮らしぶりを聞き、亡くなった日も確定することができた。わずか2ページの紹介だったが、細谷さんからは丁寧な礼状と品物が届いた。礼儀正しかったという大江の生き方が受け継がれていると感じた。
■海の見える墓所
演劇史は、伝統を掲げる歌舞伎や、それに対抗して勃興した新劇を正統とし、大衆演劇を低俗とする。その中でも剣劇(チャンバラ)は下位とみなす。さらに男がする剣劇を女が演ずる女剣劇は、大衆に歓迎されながらも、倒錯的で邪道な芝居のように言われることがあった。
何重苦も背負いながらひたむきに駆け抜けた役者一代。新宗教に身を委ねたことが評価の邪魔をしているとしたら悲しい。
お墓は海の見える湯河原の里にある。「ヨッ、大江ッ」とか「みっちゃん!」と声をかけたら、艶冶(えんや)な笑顔が返ってくるような気がする。(女性史研究者・江刺昭子)