黄金の6年間:若者の風俗を劇的に変えた「サタデー・ナイト・フィーバー」 1978年 7月21日 映画「サタデー・ナイト・フィーバー」が日本で劇場公開された日

1本の映画が若者の風俗を劇的に変えることがある。

古くは、1956年に公開された日活の『太陽の季節』(監督・古川卓巳)がそうだった。ご存知、芥川賞を受賞した石原慎太郎サンの小説を映画化。当時の無軌道なブルジョアの子弟たちの逗子・葉山における生態を赤裸々に描き、彼らの髪型やファッション、遊びを真似る若者たち―― 「太陽族」を生み出すなど社会現象になった。

1987年公開のホイチョイムービー『私をスキーに連れてって』(監督・馬場康夫)もそうだ。ユーミンの音楽と共に、ハイセンスなスキー遊びをポップに散りばめ、空前のスキーブームをけん引した。当時、ゲレンデは劇中で披露された「トレイン」に興じる若者たちであふれた。

そして―― 今回ご紹介する映画『サタデー・ナイト・フィーバー』もそんなムーブメントを生んだ作品の1つ。時に1978年7月22日―― そう、41年前の今日、日本で封切られるや否や、瞬く間に若者たちを席捲。それまでアングラなカルチャーだったディスコを一躍、表舞台に引き上げたのである。

それからというもの、街は雨後の筍のようにディスコが開店し、洋楽ヒットチャートはディスコミュージックが台頭、若者たちは猫も杓子も「ステップ」と呼ばれる奇妙なダンスの習得に励んだ。

そう―― 今日、メディアがかつてのディスコブームを回顧すると、お立ち台やワンレン・ボディコンの「ジュリアナ旋風」か、マハラジャや青山キング&クィーンなどのバブル時代の高級ディスコが取り上げられがちだが―― それらは時代を映した “現象” には違いないが、真の意味で若者たちの間でディスコが盛り上がったのは、映画『サタデー・ナイト・フィーバー』に端を発する1980年前後の “サーファー・ディスコ” ブームだった。奇しくも、それは「黄金の6年間」―― 東京が最も面白く、猥雑で、エキサイティングだった時代と符合する。

六本木キサナドゥ、ネペンタ、フーフー、新宿ニューヨークニューヨーク、ゼノン、渋谷キャンディキャンディ、そしてキサナドゥ亡き後のナバーナ―― etc 六本木スクエアビルや新宿東亜会館はディスコの聖地で、週末ともなれば、大学生や高校生、サラリーマンに OL、中には背伸びした中学生たちも集った。80年代後半に登場するドレスコードや VIP ルームのある高級ディスコに比べ、サーファー・ディスコは圧倒的な敷居の低さが魅力。それゆえ、一気にマーケットを広げたのである。

当時のサーファー・ディスコは、男子はフィラあたりのポロシャツかアロハ、女子はハマトラなどのカジュアルな服装で訪れるもの。入場料も男子は2500円、女子は1500円程度とリーズナブル。フリードリンク・フリーフードで手軽にお腹を満たすことができた。

とは言え、メニューと言えば、バイキングの焼きそばやフライドポテト、唐揚げなど学園祭の模擬店レベル。それでも音楽が聴けて、踊れ、異性と出会えるだけで十分だった。お目当ての女子と踊るチークタイムはワン・ナイト・ラブへの夢の扉。夢破れた輩たちは、始発まで踊り明かすことも少なくなかった。

おっと、肝心の映画の話を忘れていた。『サタデー・ナイト・フィーバー』―― ともすれば、ディスコの印象が強すぎて、ある種のキワモノ映画と見られがちだが、いえいえ、これは純粋な青春映画です。

主演はご存知、ジョン・トラボルタ。劇中で彼が見せるダンスは見事で、様々な「ステップ」―― バス・ストップ、ドルフィン・ロール、ハッスル―― 等々を披露してくれる。これら、ステップなる世にも奇妙な振付けを当時の若者たちは習得して、トラボルタになりきったのだ。

そして、映画を盛り上げる音楽はビー・ジーズだ。かつて、映画『小さな恋のメロディ』で美しい旋律の主題歌「メロディ・フェア」を歌った彼らが、6年の時を経て、なんとディスコサウンドで帰ってきたのだ。ビー・ジーズが同映画に書き下ろした劇伴は、「愛はきらめきの中に」や「恋のナイト・フィーヴァー」など実に5曲。中でもタイトルバックにかかる「ステイン・アライヴ」は大ヒットした。

 Well, you can tell by the way I use my walk
 (歩き方で分かるだろ)

 I'm a woman's man: no time to talk
 (女が夢中になる男さ)

 Music loud and women warm
 (音楽が鳴り響き、女のぬくもりを感じる)

 I've been kicked around since I was born
 (虐げられてきたが)

 And now it's all right. It's OK
 (今はもう大丈夫)

 And you may look the other way
 (アンタは違うタイプだろ?)

 We can try, to understand
 (分かり合えるかもしれないな)

 The New York Times' effect on man
 (ニューヨークは俺たちに希望をくれる)

―― 冒頭、その「ステイン・アライヴ」に乗せて、ニューヨークのブルックリンをトラボルタ演じるトニーが颯爽と歩いているが、よく見ると、その手にはペンキの缶―― そう、彼は普段はペンキ屋で働く、しがない青年だった。ブルックリンは労働者の街で、トニーは変わりばえのない毎日にうんざりしていた。

だが、そんな彼も週に一度だけ輝く時がある。それが週末に悪友たちと繰り出すディスコだった。フロアーに立ち、次々とステップを決める彼のダンスはいつも周囲から注目の的。自然と女の子の方から声がかかった。

ある日、いつものようにトニーが週末のディスコで踊っていると、一人の年上の女性に目が止まる。彼女―― ステファニーのダンスは優雅で華麗。一目で彼は恋に落ちた。トニーは思い切ってステファニーをダンスコンテストに誘う。だが、意外にも断られる。彼女は橋の向こうの都会の街―― マンハッタンで暮らしており、あまりに生活環境が違い過ぎたのだ。

ちなみに、この橋を挟んで男女が行き交う設定は、後にドラマ『男女7人夏物語』の良介(明石家さんま)と桃子(大竹しのぶ)にオマージュされる。

その後、物語は色々とあって、トニーはステファニーをコンテストに誘うことに成功する。大会当日、華麗なハッスルを披露する2人。踊り終えると、観客たちから満場の拍手。だが、その直後に登場したプエルトリコ人のペアのダンスにトニーは驚愕する。自分たちより上手かったのだ。

審査発表で次々と入賞者の名前が読み上げられるが、トニーの表情は冴えない。それはプエルトリコ人のペアが2位に入った時に確信に変わる。

「そして1位は―― ステファニーとトニーだ!」

DJ の声に、トニーは怒りに震え、ステファニーの手を引いて会場を飛び出す。

「プエルトリコ人だからって差別するなんて最低だ!」

物語のラスト、トニーは悪友たちや、ブルックリンの街と決別し、橋を渡ってマンハッタンの街へ入る。それは、一人の青年が大人の男になる決意でもあった。そして、ステファニーと再会する――。

 I know your eyes in the morning sun
 (朝日の中で見る君の瞳)

 I feel you touch me in the pouring rain
 (雨の中で感じる君のぬくもり)

 And the moment that you wander far from me
 (君が僕から離れると)

 I wanna feel you in my arms again
 (もう一度抱き寄せたくなる)

エンディング曲は、ビー・ジーズの名曲「愛はきらめきの中に」だ。これまた素晴らしい。先にも述べたが、ディスコ映画という見方を置いても、普通に青春映画として名作だろう。ハッピーエンドであることから、ポスト・アメリカン・ニューシネマという位置づけも確認できる。

だが、同映画を起点に始まったサーファー・ディスコブームの方は、ハッピーエンドというワケには行かなかった。1982年6月、新宿のディスコで踊りあかした女子中学生2人が何者かにさらわれ、早朝に殺される事件が起きる。警察は犯罪の温床になりかねないと、1984年8月の風営法改正によりディスコの深夜営業を禁止する(施行は1985年2月から)。サーファー・ディスコブームはトーンダウンし、やがて雲散霧消した。

麻布十番にマハラジャがオープンし、六本木を中心に高級ディスコブームが幕開けるのは、この4ヶ月後である。

カタリベ: 指南役

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