重苦しさ払拭した偶然の出会い  オランダ、国際交流の「名場面」

オランダ・ライデンを散策中に学生らと談笑する当時の天皇、皇后両陛下。左端はマルテ・クラインアンさん、その隣はエフェリン・ベルフハウトさん=2000年5月(共同)

 天皇、皇后在位中の上皇后ご夫妻の海外訪問で、2005年のオランダは周囲が最も緊張した国の一つだった。旧植民地インドネシアの占領を巡る反日感情が根強く残り、昭和天皇が訪れた際には激しい反発もあったからだ。訪問に伴う重苦しさの払拭に一役買ったのは、地元の女子大学生との偶然の出会いだった。当時、宮内庁の発表はなく、日本での報道はわずかだったが、オランダでは逆にこの出来事が大きく伝えられた。時が流れ、代替わりの報道の際には、国際交流の象徴的な〝名場面〟として日本の各メディアで再び取り上げられた。(アムステルダム、デーフェンター、ライデン共同=小熊宏尚)

 <日本語で「こんにちは!」>

 2000年5月25日。ご夫妻とベアトリクス女王(当時)らがオランダ・ライデンの日本博物館「シーボルトハウス」からライデン大学への約300メートルの道を歩いた。その様子を、一行の移動経路に面した大学女子寮の窓から、何人もの学生が身を乗り出して見ていた。地上階の一つの窓に3人、隣の窓にも数人。一行が近づくと、目と目が合った。両陛下と女王らは窓際までやってきた。予定にない行動だった。「あなたたちはここに住んでいるのですか」。ご夫妻のこんな言葉から、会話が始まった。

 「会話は2分ほど。こちらからは寮に女性17人が住んでいると話した。どんなことを勉強しているかと聞かれた」。3人の一人で、今は首都アムステルダムに住む税務法律家マルテ・クラインアンさん(37)は振り返る。

クラインアンさん=2019年4月2日、オランダ・アムステルダム(共同)

 クラインアンさんは当時18歳。この頃はラテンアメリカを研究していた。前年まで暮らしていたニュージーランドでは日本語を勉強していた。同じ窓にいた友人にも「こんにちは」を教え、一緒に声をかけた。

 ベアトリクス女王も、現在のウィレム国王もライデン大学を卒業した。「学生時代、私もこの近くに住んでいたのですよ」。女王がご夫妻にそんな話をしたのを、当時シーボルトハウスの館長として案内した日本研究者ペギー・ブランドンさんは覚えている。

 クラインアンさんと同じ窓から顔を出した一人で、寮長だったエフェリン・ベルフハウトさん(46)は、午前中に買い物に出ようとしたが、寮の玄関前に立っていた警官に「女王が『特別な客』と一緒に通る」と言われ、外出させてもらえなかった。

 オランダ国民と王室の距離は日本と比べるとかなり近い。国王が歩いても普通は道路を封鎖せず、誕生日には街角などで一般市民と交流することも。それなのになぜ? ベルフハウトさんが窓を開けて見ていた理由の一つは「何か普通ではないことが起きている」と感じたからだ。現在はオランダ東部デーフェンターの小児科医のベルフハウトさんは、ご夫妻と言葉を交わした印象を「とても穏やかで優しかった」と振り返る。

ベルフハウトさん=2019年4月3日、オランダ・デーフェンター(共同)

 <大きな反響>

 寮の前の道は狭く、片側は運河。当時の同行記者によると、日本の記者団はシーボルトハウスから一行と一緒に歩けず、先回りして大学で待機した。そのため「偶然の出会い」は知らず、宮内庁側からの発表もなかった。

 日本側代表撮影のカメラマンは、一行から離れた運河の橋付近から写真を撮影した。だが、会話の相手は誰なのかなど、詳細は把握できずにいたとみられる。共同通信が当時、配信した写真に付けた説明は「ライデンの運河沿いを散策中に住民の女性らと談笑する天皇、皇后両陛下」と、ごくシンプルだ。

 ただ、橋の上には何人ものオランダメディアのカメラマンもいた。彼らが撮った写真は、翌日のオランダ各紙に1面トップを含めて大きく掲載され、同国メディアからは学生3人への取材も相次いだ。インタビューの依頼は1週間後まで続く。「その後の反応には本当に驚いた。外国に住んでいる友人からも『新聞を見たよ』と連絡があった」(クラインアンさん)。学生たちは反響の大きさで、自分たちの行動の意味を理解し始めた。

 日本軍は大戦中、オランダの植民地だったインドネシアに侵攻。オランダ側によると、兵士のほか10万人以上の民間人を抑留し、強制労働や慰安婦に充てた。多くの犠牲者を出した歴史を背景に、昭和天皇が1971年にオランダを訪問した際には、沿道から魔法瓶が投げられ、乗っていた車の窓にひびが入る事件が起きている。

 クラインアンさんは「政治的な文脈を、(ご夫妻との)出会いの時にはよく知らなかった」。ベルフハウトさんは異様に厳重な警備の裏に歴史の暗部があることは理解しつつ「日本との間に問題を感じていたのはとても小さなグループだと思う」と話す。上皇さまはオランダ訪問中、第2次大戦戦没者記念碑に長く頭を下げ、晩さん会では被害者に対する「心の痛み」にも言及。地元紙はこうした行動を「英雄的謝罪」と称賛した。

 そんな記事と、女子学生3人の笑顔の写真を並べたオランダ紙も。ベルフハウトさん宅には、写真を載せた多くの新聞が保管してある。クラインアンさんの祖父も新聞を買い集めた。

 ベルフハウトさんは、父親がもともと趣味で東アジアの美術品を集めており、インタビューでおじゃました際には自宅には有田焼の茶わんや、江戸時代にオランダ人が出島に来たときの絵などが飾られていた。クラインアンさんは前述の通り、日本語を学習していた。女子学生3人のうちのもう一人の行方をつかむことはできなかったが、両陛下がたまたま声をかけた2人の女子学生が、日本文化や言語に親しんでいたとは―。「偶然の出会い」の背後に、もう一つの偶然があった。

 <記憶を新たに>

 自転車王国オランダ。当時も今も、寮の前には寮生らの自転車が折り重なるように置いてある。「(ご夫妻や女王が通ると)事前に分かっていたら窓を拭き、自転車も片付けておいたのに」とベルフハウトさんは笑う。

 2016年の退位の意向示唆、19年4月1日の新元号「令和」発表、そして平成最後の日。オランダで上皇さまに関係するニュースが流れる時、ご夫妻と学生の出会いの写真もメディアに現れた。当時の学生たちはそのたびに、あの日の記憶を新たにする。

 08年には当時の写真を載せた金属プレートが女子寮の外壁に掲げられた。ここを訪ねる観光客がいることに気づいた地元自治体が設置した。税務法律家のクラインアンさんは、寮の並びにある「国際税務センター」に時々レクチャーに行く。そのたびにこの写真を目にし「何度も思い出が戻ってくる」。ベルフハウトさんはプレート設置から数年後、ライデンを訪れ、寮の前で子供たちに「ここに私が住んでいた」と話した時にプレートが設置されていることを初めて知り、本当に驚いたという。

 「あの瞬間が冷凍保存されたみたい。素敵」とベルフハウトさん。ご夫妻と女子学生の笑顔は、平成という時代が終わった後も、日本とオランダの友好関係の行方を照らし続けている。

2000年5月に当時の天皇皇后両陛下と学生が談笑する写真を載せた金属プレートが掲げられたライデン大学女子寮の壁=2019年4月3日(共同)

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