【あの夏の記憶】埼玉の高校野球番組に抜擢された元球児のイケメン俳優 心に残る“夏の後悔”

テレ玉「高校野球ダイジェスト2019」でMCを務める俳優の神田穣さん【写真:荒川祐史】

大手芸能プロ・石原プロモーションの「次世代スター発掘オーディション」グランプリの神田穣さん

 第101回全国高等学校野球選手権埼玉大会の開催中に放送しているテレ玉「高校野球ダイジェスト2019」(試合開催日の午後9時~9時30分に放送)のMCに抜擢された俳優の神田穣さんは、自身も埼玉県内の高校の硬式野球部に所属し、仲間とともにプレーした。高校卒業後は単身で渡米し、米国の野球に挑戦。その後、母親が大手芸能プロ・石原プロモーションの「次世代スター発掘オーディション」に応募し、なんとグランプリを獲得。2017年5月に俳優デビューし、この度、愛する野球に携わる仕事に就いた。そんな神田さんが抱く高校野球への思いを聞いた。

 神田さんは大会期間中、試合会場に取材に行き、夕方にはさいたま市内にあるテレ玉のスタジオで収録を行っている。

「ひとつひとつの学校にドラマがあります。何のアクシデントもなく夏を迎える学校などないのではないでしょうか。けがに悩んだり、壁に突き当たったり、部員同士でぶつかり合ったり……。それがあるから、みんな試合後に感情が溢れ出てくるのかな。勝ち負けはもちろんですが、それに加え、その裏にある選手たちの魅力、部員同士の友情などを伝えていきたいですね」

 目を輝かせながら、質問に答えていた神田さんが一呼吸を置いて、言葉をつないだ。

「僕も同じような立場で、同じような経験をしてきたので……。ぱっと観ただけでは、野球部で過ごした3年間は見えてきませんから」

 今から6年前の2013年。神田さんは埼玉の立教新座高校の3年生だった。埼玉大会の2回戦、所沢商に敗れて、最後の夏が終わった。

 当時のスタメン表、ベンチ入りメンバーを見ても「神田穣」の名前はない。芸名だから見つからないというわけではなかった。

「神田穣は本名です(笑)。僕は2年生の秋に右肩をけがしてしまい、野球から離れてしまったんです。もう投げるだけでも痛くて……」

 診断結果は全治1年。夏の大会には間に合わない、当時はショートで副将を務めていたが、当時17歳の青年にとっては、受け入れがたい現実だった。練習にも身が入らなくなり、野球部からも遠ざかった。

「当時は何も考えられないというか『もう、いいや』って。でも、同学年のキャプテンが僕のことをずっとつなぎ留めてくれたんです。『(学年全員の)26人で卒団したいんだ』って。辞めさせてもらえなかったです」

 それでも2か月、野球から離れていた期間があった。ただ、筋力トレーニングは続けていたため、新1年生のトレーニング係、世話役として、チームに携わることに。ノックを打つなど裏方にまわった。しかし「チームに戻っても、熱は入らなかったです」

高校野球、最後の夏にはメンバーとの温度差も…

 夏の大会の試合当日。最後の夏に懸けるメンバーとの自分の温度差は確かにあった。神田さんはスタンドで観戦していた。試合は接戦で、同点の8回裏に1点を勝ち越され、3-4で敗れた。不思議だった。大粒の涙があふれ出た。一度は背を向けた野球部。気が付けばチームで誰よりも泣いていた。

「後輩からも『(僕が)こんなに泣くとは思わなかった』って言われちゃいました。当時はわかりませんでしたが、今になって考えてみると3年間をやり切れなかった悔しさだと思います」

 意地は張っていても、感情はコントロールできなかった。けがとはいえ、途中で気持ちを切らさなければベンチの中で最後までグラウンドで戦えたかもしれない。

 神田さんの高校野球は不完全燃焼で幕を閉じた。

 あの夏の甲子園は、群馬・前橋育英高が初優勝を果たした。その時、神田さんは渡米の準備をしていた。元々、穣(じょう)という名前もアメリカのメジャーリーガーになってほしいという願いを込めて両親に付けてもらった名前だった。

「父も母も野球が大好きで『大リーガーになれ!』と。僕が野球から離れている時に母がいつの間にかトライアウトに応募していて、受けに行きました。いくつか受かったので、留学先をその中から1校選びました」

 メジャーリーガーになろうだなんていう野望は持っていない。右肩痛の全治1年が過ぎようとした頃、痛みは消え、ボールが投げられるようになっていた。だからこそ、もう一度、野球に挑戦したい気持ちになった。

 渡米後はカリフォルニア州のサンノゼの大学や、ロサンゼルスのクラブチームでプレーした。米国人とのパワーの違いを肌で感じた。何度も何度もバットをへし折られた。

「言葉も野球も難しかったですが、得たものは数えきれないので、僕はアメリカに行ってよかったと本当に思っています」

テレ玉「高校野球ダイジェスト2019」でMCを務める俳優の神田穣さん【写真:荒川祐史】

「いつも僕が道から外れそうになった時、助けてくれたのは友達でした」

 約2年、異国の地で揉まれた。大好きだった野球にも一区切り、気持ちの整理をつけることができた。新たな夢を追いかけるために、アメリカに居続けることも考えたが、それは両親が許さなかった。野球をするために送り出し、仕送りもしてくれていた。改めて今、考えれば、当然のことと納得ができる。

「気がついたら、母が石原プロのオーディションに応募していたんです。きっと僕をアメリカから帰国させるためだったんでしょうね。芸能の仕事は、姉が小さい頃、少しやっていたので、興味がないわけではありませんでしたが……」

 まだ、アメリカにいた頃に応募したため、オーディションのために帰国したこともあった。実は、神田さんは歌を人前で披露するのが苦手。オーディションでは歌唱披露もあることを知った米国に住む日本人の友人から、何度もカラオケに誘われた。

「絶対に歌いたくない! と何度も言ったのに本当にしつこくて(笑)。しつこいから最後は歌っちゃいましたけど」

 友達はこう言ってくれたという。

「穣の歌を聴いて、落とすような審査員は見る目がないと思った方がいいよ」

 合格の根拠なんて何もない。ただ、その気持ちがうれしかった。自信を持って、歌唱力テストに挑み、最後は合格通知を手に入れた。

 ドラマや映画にも出演するようになり、高校時代の仲間や米国時代の友人から「見たよ」「面白かった」などという感想のメッセージが届くという。

「いつも僕が道から外れそうになった時、助けてくれたのは友達でした。高校時代、自分に負けたとき、その大切さに初めて気が付くことができました。だから、球児たちには納得するまでやってほしいと思います。野球部の仲間を大切にしてほしいです」

 自分にしかわからない、高校野球の魅力を「高校野球ダイジェスト2019」で伝えるために、神田さんは今日も埼玉県内のグラウンドへ行く。不完全燃焼だったあの夏を思い出し、やり切ったと思えるように、全力投球すると決めている。(楢崎豊 / Yutaka Narasaki)

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