二重被爆を撮る 稲塚監督の思い・上 <絆>「彊さんからのバトン」 遺志受け継ぎ取材に情熱

記録映画「二重被爆」の上映会で体験を語る山口彊さん=2009年6月28日、長崎市平野町、国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館

 2005年、東京のドキュメンタリー映画監督稲塚秀孝(68)は、広島、長崎の両方で原爆に遭遇した長崎市の被爆者山口彊(つとむ)(10年、93歳で死去)と初めて会った。被爆体験の継承と反核平和の訴えに命を燃やした晩年に密着し、11年までに2作品を公開。死去後も山口の家族による継承活動の追跡や、他の二重被爆者の発掘に力を注ぐ。このほど新作「ヒロシマ ナガサキ 最後の二重被爆者」を完成させ8月9日、長崎市の長崎セントラル劇場で上映が始まる(15日まで)。二重被爆にこだわり続ける稲塚の思いに迫った。
 ■大きな出会い
 6月下旬、同市役所であった完成記者会見。稲塚は「山口彊さんとの出会いは私にとって非常に大きくて二重被爆のテーマで撮り続けていこうと思ったが、(新作完成まで)8年もかかった」と、万感を込めて語った。
 テレビ番組制作などを手掛ける稲塚は04年、仕事仲間から、広島と長崎で2度被爆した人がいるという話を耳にした。「雑談の何げないひと言だったが『ええっ、本当なの』と」。それまで30年ほど仕事を続け、戦争や平和に関する番組も制作した。しかし原爆について取材した経験はなかった。「一生かけるべき重いテーマ。無意識に避けていたかもしれない」
 すぐに調査を始め、図書館で見つけた本で、山口の存在を知った。連絡先を調べ手紙を送付。しばらくして速達で「取材を受けます」と返事が届いた。
 山口は三菱重工業長崎造船所(長崎市)の設計技師だった29歳のとき、派遣先の広島で出勤途中に被爆。やけどを負い長崎に戻った後、再び被爆した。06年公開した1作目の記録映画「二重被爆」は山口をはじめ7人の証言を収録した。
 ■生きざま伝え
 その後、山口は89歳で語り部活動を開始。06年に渡米し、ニューヨークの国連本部で講演するなど、国内外で精力的に活動した。稲塚は死去直前まで取材し、11年に公開した2作目「二重被爆~語り部・山口彊の遺言」をまとめた。
 新作でも山口の生前が改めて紹介されている。がんを発症後も若者に語りかける姿、二重被爆に関心を持つ米映画監督ジェームズ・キャメロンの訪問を入院先で受け、手を握り合う場面…。「核は人間世界にあってはいけない。自分がなぜ生かされているか、それを叫ぶ宿命的なものを持っているのではないか」-。山口の声が、強い意志をまとって画面から響いてくる。
 ■「言葉の重み」
 二重被爆を約15年間、追い続けてきた理由について稲塚は「二重被爆者の苦悩を伝え、なぜ二重被爆者が生まれたのか、という疑問について答えを探したい」と話す。ジャーナリストとしての情熱を後押しするのは、山口の遺志を受け継ぐという決意だ。
 09年12月下旬、稲塚は入院先で病床の山口と、最後に言葉を交わした。「年が明けたらまた来ます」と告げると、山口は「おたくに任せる」とだけ答えた。山口は10年1月初めにこの世を去る。稲塚は「言葉の重みはよく分かっている。彊さんから受け取ったバトンだと思った」と振り返る。
 山口の長女で体験を語り継ぐ活動に取り組み、新作にも登場する長崎市の山崎年子(71)は、完成記者会見で稲塚への感謝をこう語った。「父がずっと心の中で思っていたことを監督が出し切ってくれた。私にとっても家族みたいな人」
=文中敬称略=

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