田原俊彦「哀愁でいと」ジャニーズ躍進の礎を築いた男性アイドルの登場! 1980年 6月21日 田原俊彦のデビューシングル「哀愁でいと」がリリースされた日

2019年7月9日、ジャニーズ事務所の創業者で代表であるジャニー喜多川氏が亡くなった。1962年に事務所を開設して57年、幾多のスターを世に送り出したカリスマは87歳の生涯を閉じた。それからというもの、生前の氏の功績を顧みようとするメディアが後を絶たない。7月15日発売の『AERA』もその一つであった。

だがよく見ると、そこに掲載されたある資料の中の記載にどうしても捨て置けない箇所があった。「ジャニーさんが駆け抜けた87年」と題されたその年表には彼の生年から事務所の開所、主なタレントたちのデビューの歴史が記されていた。目に留まったのは1980年の箇所「12月 近藤真彦が『スニーカーぶる~す』でデビュー」とある。その年の記載はそれ “だけ” である。

おそらく事務所が公式に出した資料に基づくものだろう。同年の6か月も前、この年のレコード大賞新人賞を獲得する「田原俊彦『哀愁でいと』でデビュー」という事実が、ジャニーズ年表に触れられていない。

退所した人物は載せないというなら、郷ひろみは1972年のデビュー… が記されているから、そうではないだろう。ではスペースの問題でマッチを優先しただけなのかも知れないが、そんな軽く扱われてよいものには思えない。

せめて併記してもよかったのではないか。たのきんトリオの先陣を切ってデビューを果たした田原俊彦が成したものは、そこに刻まれるべき価値のあるものだと思う。ここではジャニーさんの功績について触れながら、それについて述べてみたい。

今年、芸能活動40周年を迎えるという “トシちゃん” こと田原俊彦は先月、75枚目のシングル「好きになってしまいそうだよ」をリリースしたことで、久しぶりに芸能マスコミをにぎわせた。かつてジャニーズを担うエースとして期待された彼から、まだ病床に伏せていた大恩人に対するコメントをメディアが求めていたのだ。

彼は爽やかで快活なキャラクターとは裏腹に大変な苦労人である。幼い頃に父親を亡くし家族を支えようと芸能界入りを決意。入所に際しては、書類応募から音沙汰のない事務所へ自ら足を運び、社長の居場所を聞き出すと、レッスン中に押しかけて直談判したという勇ましいエピソードもある。そして、田原はジャニーさんのことを第2の父親のように慕い続けたという。かくして、芸能界への足掛かりをつかんだ彼は、日々甲府からレッスンに通いながらチャンスを待った。

ジャニーズ事務所のタレントイメージといえば、“歌って踊れる美少年” がまず先に立つ。ブロードウェイのミュージカルスターを理想とする育成の基本は揺らぐことはなかった。歌とダンスのレッスンは基本として、その中で個々の個性を見極め、目指す方向を定める。同時に先輩格のタレントのバックダンサーを務めながらショービジネスの現場で経験を積ませることを欠かさない。

誰しもジャニーズJr. という育成プロセスを経て、世に送り出されていく。自ら “踊らないジャニーズ” という風間俊介クンですら、通ってきた道である。類似例を挙げるならジャニーさんがお手本としてきた宝塚歌劇団には研究科があり、事務所設立時に関係した渡辺プロダクションには、あのキャンディーズを生みだしたスクールメイツがあった。

これらの過程で見込みのある者たちにキャストオーディション行きを命じ、ここで一定の評価を得られた者たちが次のステップ “デビュー” へ進むことができるのだ。ジャニーさんが発するセリフとして有名な「You、やっちゃいなよ」は、ここで結果を出した者たちに浴びせる言葉だ。思いがけず脚光を浴びる立場となり、戸惑っている彼らの背中を押して、ポンと飛躍させるための言葉なのである。

田原俊彦も大先輩である おりも政夫の付き人や川崎麻世のバックダンサーを務めながらジャニーズJr. の日々を送り、やがてテレビ局へ行くように命じられたに違いない。そうして役をつかんだ話題作『3年B組金八先生』では、女性教師に恋心を抱くナイーブな生徒役を好演して存在感を示し、見事に期待に応えてみせた。金八シリーズは時折視聴率30%を超える人気となり、共にキャストに送り込んだ近藤真彦、野村義男も、その顔は広く知れ渡ることになる。

その頃ジャニーズ事務所は、郷ひろみが移籍し、70年代を席巻したアイドルグループ、フォーリーブスが解散するなどの苦境にあって、次世代のスター候補を探しあぐねていた。田原がこうして、デビュー迎えるに相応しい環境を作り上げたことは、マネージメントに一つの勝ちパターンをもたらした。

さて、「哀愁でいと」は洋楽のカバー曲である。原曲は日本でも CM などで人気のあったレイフ・ギャレットの「ニューヨーク・シティ・ナイト」で、実は前年の1979年にも国内でもリリースされていた楽曲である。レイフは元々ティーンポップアイドルとして本国でも活躍していたし、国内でもポスト ベイ・シティ・ローラーズ的存在として女の子たちを中心に人気があった。シングル「ダンスに夢中(I Was Made for Dancin’)」は、「お、お、お、踊ろう~ ♪」の珍妙なフレーズでお馴染みの川崎麻世のカバー「レッツゴーダンシング」よりヒットしていたように思う。

聴いたこともないような楽曲ではなく、洋楽の人気アーティストの曲をカバーするのだからリスクがないわけではない。おかしな訳詞でファンをがっかりさせてはならない。王子様チックな要素やファニーなイメージは排除され、原曲にもましてロックテイストのハードな音作りが施された。

日本語詞として書かれた「バイバイ哀愁でいと~ ♪」のキャッチーなフレーズはリスナーたちの耳に残り、彼のハンドアクションは皆が真似するようになった。また英語詞っぽい響きを残すため、レコーディングの歌入れでは「哀愁でいと ♪」の箇所を「I should date ♪」と聴こえる様に歌うべく指導が入ったという。トシちゃんの独特な歌い方もこんなところで見事にはまっていた。田原俊彦の最大のヒット曲は、実は「抱きしめてTONIGHT」ではない。この「哀愁でいと」なのである。

僕らが聖子ちゃん、良美ちゃんの登場に沸いていた1980年の春。レコードショップには着々と等身大パネルが飾られ、否が応でも「田原俊彦って誰?」という事になっていた。そしてそれがあの金八先生に出ていた生徒役「沢村」であったことに気づくまで、そう時間はかからなかった。

それまでジャニーズタレントについて僕らが抱いていたイメージは、どちらかというとフレアのパンツにヒラヒラした袖の衣装を着て踊っている軟派なもので、同性には受け容れ難い印象があった。だが彼に限ってはそんな気がしなかった。学園ドラマのキャストとして馴染みがあったことで、逆にシンパシーを感じる部分もあったからだと思う。

ジャニーさんが、そこまで計算していたかどうかはわからない。だが半年後に続く近藤真彦のデビューから、金八先生第2期に送り込んだシブがき隊の面々によって、ジャニーズ勢のレコード大賞新人賞3連覇が成し遂げられると、もはやスター育成のメソッドを手中にしたといってよかった。

稀代のプロデューサーといわれるジャニー喜多川の感性は、この後さらに冴えを見せ始める。全国から才能が集い、次に何が当たるのか、どんなキャラクターが来るのかの見極めが加速し、精度も増していく。時代を読むのではなく、ジャニーの判断こそが時代を作っていった。

90年代以降にテレビの歌番組が消えていく中で、バラエティ番組に活路を見出していった SMAP の登場を転換期として、そのマネージメントの成功を称える向きは多い。だが、その可能性は既にあったといってよいだろう。

なぜなら、田原、近藤、野村による たのきんトリオが登場した時、『たのきん全力投球』なる冠番組があり、以前も触れたが『カックラキン大放送』のキャストとして野口、西城、郷の新御三家の後を担ったのも彼らだったからだ。ジャニーズが担ったのはシンガーでも、ダンサーでも、ましてやアイドルでもない。

目指したのはスターであり、そのステージはいつも総合エンターテインメントだった。ジャニーズ事務所の今日までの躍進は、80年代に突入したまさにこの時「哀愁でいと」のリリースから始まったと思えるからである。

カタリベ: goo_chan

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