川村カオリ ― 全身で音楽を呼吸し続けたロックンローラー 2009年 7月28日 闘病中の川村カオリが亡くなった日

2009年、国内外でミュージシャンの急逝が相次いで報じられた。マイケル・ジャクソン、加藤和彦、忌野清志郎、アベフトシ、そして川村カオリ ―― 2019年7月28日、彼女が亡くなって10年の月日が流れた。

1980年代末、辻仁成プロデュースのシングル「ZOO」でデビューした川村かおりは、留学先のロンドンでカメラマンのハービー山口に同行していた吉川晃司と出会う。

偶然の出会いではあったが、その後も川村と吉川の親交は続き、乳がん再発が発覚したのち、もう一度メジャーでの活動を望んだ彼女に対し、所属事務所社長の立場から、最期の舞台となった渋谷公会堂(C.C. Lemon ホール)を用意し、支援したのは吉川だった。

また、ミュージカル『SEMPO ~日本のシンドラー 杉原千畝物語~』(2008年4月・2013年9月公演)において杉原千畝役を演じた吉川だが、商社駐在員としてモスクワで仕事をしていた川村の父とロシア人の母の仲人を務めたのが杉原千畝だった、という事実もただならぬ縁を感じさせる。

90年代末からは SORROW(ソロー)と名乗り、ソロユニットからバンドへ。個人活動の際の表記は片仮名で “川村カオリ” となった。その間、川村はメジャーカンパニーの力を借りずに、旧知の仲であるブランキー・ジェット・シティのドラマーだった中村達也や、ミッシェル・ガン・エレファントのチバユウスケ、ウエノコウジらを DJ やライブのメンバーに擁し、「ロックンロール」をコンセプトとしたイベント『696』の全国ツアーを決行。その模様を『696 TRAVELING HIGH』という映画にして公開している。

“川村かおり” から “川村カオリ” へのキャリア変遷については、最期のアルバムとなった『K』に迎えた作家陣のラインナップを見れば分かり易いかもしれない。吉川をはじめ COMPLEX の盟友・布袋寅泰、元ブランキー / シャーベッツの浅井健一、KENZI & THE TRIPS / the pillows の上田ケンジ、GREAT3 の片寄明人、TOKYO No.1 SOUL SET の渡辺俊美、シンガーソングライターの鈴木祥子など、メジャーからアンダーグラウンドまで分け隔てのない人選となっている。

メジャーを離れて以来、一度も歌われる事はなかったとされる「ZOO」のセルフカバーは、一人娘がフェイバリットとして挙げた事に対するアンサー。様々な活動を経て幅を広げた音楽性と、突き詰めたルーツへの確固たる自信に、母としての強かさも加わり、過去の作品に前向きに対峙できるよう成長した証と言えるだろう。

そんな川村は小学生時代に、ハーフであるというだけで壮絶なイジメにあっていたという。そんなとき彼女は、鼻血をたらしたピストルズのシド・ヴィシャスのピンナップに勇気づけられ、やがて80年代中頃、原宿で50'sのファッションを身に纏いロックンロールをかけて踊る、いわゆるローラー族の一員となる。

そして、DJ として活動するようになってからは、少女の頃に踊り狂っていた曲、すなわち原点であるロックンロールを選曲する事が多くなっていたという。

その背景にあるのは、彼女自身が、芸能人である事や、売れ線のヒット曲に日和る送り手(プレイヤー)である事以前に、心から音楽を渇望し、とりわけロックンロールによって救われた受け手(リスナー)の一人であった事に他ならない。

「ZOO」からはじまった数々の名曲、パフォーマンスで聴く人を魅了し、また自身の経験からピンクリボン運動で精力的に啓蒙活動を展開した川村カオリ。遺された作品で聴ける歌声が今も色褪せずに輝き、聴き手に寄り添うのはきっと、そんな彼女の生き様が刻み込まれているからだろう。

原宿に(自分の)銅像立たねえかなぁ…

乳がん再発後も、そんなふうにうそぶいた彼女。そう、川村カオリは最期まで全身で音楽を呼吸し続けたロックンローラーだ。

カタリベ: キンキーとキラーズ

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