【明治維新鴻業の発祥地、山口 今年は大村益次郎遭難から150年】 No.186

▲町には砲声が轟いた(東京都千代田区)

(7月24日付・松前了嗣さん寄稿の続き)

慶應義塾

 上野の寛永寺において激しい戦闘が繰り広げられていた頃、新芝錢座(現・東京都港区浜松町1丁目)の慶應義塾では、かつて益次郎も学んだ大坂の緒方洪庵が主宰する適塾の出身である福沢諭吉が、フランシス・ウェーランドの著書「ザ・エレメンツ・オブ・ポリティカル・エコノミー(経済学要義)」を手にし、門人たちに講義をしていた。

 諭吉の自叙伝である「福翁自伝」には、当時の様子が次のように記されている。

 「明治元年の5月、上野に大戦争が始まって、その前後は江戸市中の芝居も寄席も見世物も料理茶屋もみな休んでしまって、八百八町は真の闇、何が何やら分らない程の混乱なれども、私はその戦争の日も塾の課業をやめない」

 こうして江戸の町中では多くの商業施設が休業となったが、諭吉が主宰する塾には門人たちが学問に励んでいた。

 「世の中にいかなる変動があっても、学問の火を絶やしてはならない。慶應義塾のある限り、日本の洋学の命脈が絶えることはない―」

 上野方面では砲声が鳴り響いていたが、諭吉はその戦いをよそに講義を続けた。

(続く。次回は8月7日付に掲載します)

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