西日本豪雨1年、被災地のいまと求められる地域の防災力〜広島市安芸区矢野地区編

広島市安芸区の最南端に位置する矢野地区。2018年7月の西日本豪雨災害では12名の方が犠牲となるなど、大きな被害がでた町の一つだ。災害直後、災害ボランティアセンターの運営など中心となって動いた矢野町社会福祉協議会、広島市安芸区社会福祉協議会のメンバーにお集まりいただき、豪雨当日のこと、そして一年という時を経て考える地域力についてお話を伺った。

写真左から矢野町社会福祉協議会会長の望月寛さん、矢野町社会福祉協議会副会長の窪田寛三郎さん、広島市安芸区社会福祉協議会主事の﨑井優香さん、矢野町社会福祉協議会元副会長の重本義紀さん

2018年7月5日から西日本を襲った記録的な豪雨。広島市安芸区矢野地区でも、経験したことのない量の雨が降り続いていた。6日になってもその勢いは止まず、夕方になって各所で山崩れが発生した。

全てが想像を超えた災害だった西日本豪雨災害

まず安芸区社会福祉協議会主事の﨑井さんに、災害直後からの動きを振り返っていただいた。

「安芸区社会福祉協議会では、発災した次の日(7月7日)から全職員が出勤し、安芸区社協の関係者に安否確認をする一方で、安芸区内の被災状況を確認して回りました。職員自身の目で被害状況を確認し、被害状況の全体像の把握に努めました。その時点で『災害ボランティアセンターを立ち上げないといけない』と皆、心づもりをしました。広島市社会福祉協議会が市災害ボランティアの本部を設置し、それを受けて7月11日、安芸区災害ボランティアセンターを立ち上げました」

矢野地区の崩壊箇所を示した地図。赤字ラインが崩壊した場所。いかに大きな災害だったかが一目でわかる

豪雨翌日の7月7日にはテレビで災害の様子が大々的に報道され、「ボランティアの要望は各区の社会福祉協議会へ」というテロップも流れた。そのため、安芸区社会福祉協議会ではボランティアを希望する電話が鳴り続いた。

「『なぜまだボランティアセンターが立ち上がっていないんだ』というお叱りもたくさんいただきました。職員が少ない中、自分たちだけで安芸区内の被災地全てを網羅して動くのは困難な状態でした。そこで被害のあった地区ごとに、地区社協や民生委員の方に連絡を取ってご協力をお願いしました」

安芸区社協と町社協との連携プレーで矢野サテライトを運営

矢野地区の担当だった﨑井さんは、矢野町社会福祉協議会会長の望月さんや矢野地区民生委員児童委員協議会会長にすぐ連絡をとって現地に向かった。

「サテライトの場所として考えていた建物は全て電気系統がやられて使えない状況でした。現地に来た﨑井さんと相談して『公園でやるしかないね』と、宮下(みやげ)公園に矢野サテライトを開設しました」と望月さんは当時を振り返る。

宮下公園に設置された矢野サテライト(写真提供:安芸区社会福祉協議会) 日頃から矢野町社会福祉協議会と安芸区社会福祉協議会との間には交流があり、それは災害後の連携をとるのに助かったという。

「広島市の他地域の社協の職員はもちろん、全国からたくさんの人達が応援に来てくれて、本当に助けられました」と望月さんがいうと、「矢野地区は地域の方の力もとても大きかったと思います。矢野町社協の皆さんが毎日サテライトに来てくださり、住民の皆さんからいろいろな声も上がる中でフォローしてくださったり、各所・各団体へ声かけしてくださる中で自主防災会や女性会といった方々も来てくださるようになり、私たちの手が回らないところを皆さんで手伝ってくださいました」と﨑井さん。この信頼関係がサテライトの運営に存分に活かされたことだろう。

町内会や自主防災会の役割分担の必要性を痛感

しばらくして望月さんが体調を崩し入院したため、矢野サテライトのボランティアの取りまとめを引き継いだのが、当時、矢野町社会福祉協議会副会長を務めていた重本さんだ。

矢野東5丁目にある重本さんのご自宅も土砂が流れ込み、半壊に近い状態だった。9日まで避難所で過ごしたが、矢野サテライトを開設してからは毎日、午後3時頃まで矢野サテライトに出向いてボランティアの受け入れや割り振りなどを行い、それが終わってから家に帰り、自宅の修繕などをするという毎日が続いた。

「一番大変だった時に妻を一人家に残して、という状態だったので妻には申し訳なかったですね。ある時、帰ると家で妻が泣いていたこともありました」

誰もがギリギリの状態で、経験したこともない災害への対応に奔走していた。公の立場と個人の立場の間で揺れ動き、もがいていた。

重本さんは今回の経験をふまえ、町内会連合会や自主防災会など、組織的に取り組まなければいけない問題が浮き彫りになったと感じている。

「まず町内会や自主防災会などの地域コミュニティ団体の役員のなり手が少ないという問題があって、それゆえ町内会長が自主防災会会長を兼務しているといったケースもたくさんあるわけです。そうなると災害が起きた時に、一人の人に全ての業務が集中してしまう。そもそも一人であっちもこっちもなんて無理なんです。有事の時にはそれぞれの担当がきちんと別れて組織的に動かないといけない。そういう仕組みをこれから考えていかなきゃならないと痛感しています」

大災害の中で見えた新しい共助のカタチ

矢野サテライトにて。黄色のTシャツを来ているのが民生委員の皆さん(写真提供:安芸区社会福祉協議会)

そんな混乱の中で、一つ注目を集めた活動があった。それが民生委員児童委員の活躍だ。
民生委員児童委員とは「民生委員法に基づいて厚生労働大臣から委嘱された非常勤の地方公務員。社会福祉の増進のために、地域住民の立場から生活や福祉全般に関する相談・援助活動を行う(政府広報オンラインより)」という役割を担う人のこと。

矢野地区は歴史ある街並みが残るエリアが数多くある一方、丘陵地には戦後から昭和40年代に造成された団地も多く存在する。新旧住宅地が入り組む複雑な町の事情や、そこに住む人のことを一番把握しているのが民生委員だった。

社会福祉協議会の職員が被災者宅を訪問したり、ボランティアを派遣したりといったときに、民生委員の皆さんが手分けして道案内をしたり、様々なサポートをした。この民生委員児童委員協議会の動きは災害時の新たな共助の形として注目され、他県から視察団が来たり、広島県内外から講演依頼がくるようになったという。

民生委員の佐々木奈緒美さんのお住まいは矢野東7丁目。完成したばかりの治山ダムを越えて大量の土砂が団地内に流れ込み、高校生を含む5人が犠牲となった梅河(うめごう)ハイツの近くだ。

佐々木さん自身も大変な状況の中、毎日、矢野サテライトに通って、ボランティアの方々のサポートや道案内をした。たくさんの人から感謝もされたが、「民生委員なのにどうしてうちの様子を見に来てくれなかったのか」と責められたこともあったという。

「とにかく毎日、矢野サテライトに通って、自分ができる精一杯のことをやるしかなかったんです。つい先日になって、『佐々木さんもあの時は大変だったんですね、あの時は気づいてあげられなくてごめんなさいね』って言っていただけて…」と声を詰まらせた。

切羽詰まった状況の中で、神経をすり減らした人も多い。互いに分かり合えなかったこともあったが、今、町もやっと落ち着きを取り戻しつつあるという。

「やっと最近になってですよ、みんなで『あの時は大変だったよねえ』なんて会話もできるようになったのは。この1年はみんなあの時のことを口に出すことはできなかったですよ」

飛び地で発揮された地域力と防災力

寺屋敷地区の土砂災害の写真を見せてくれる窪田さん

矢野地区の中で際立った地域力を見せたのが、飛び地の寺屋敷地区だ。広島市安芸区矢野地区内にありながら地理的には呉市に近い。その寺屋敷地区も山が崩れ、住宅街に大量の土砂が流れ込む被害がでた。しかし、幸いにも一人の死者もでなかった。

「地理的に矢野地区の中心から距離があるため、ある意味自立性の強い町なんです。普段からサークル活動も活発で住民同士の絆も強固。豪雨災害の時も住民同士で「避難しよう!」と呼びかけあって全員が早めに避難したから被害が最小限に抑えられたんです。あともう少し逃げるのが遅かったら被害者がでていたかもしれない、そんな状況でした」

と、寺屋敷町内会会長の窪田寛三郎さん。矢野町社協副会長も務める。

災害後も、矢野サテライトを結ぶ道路が土砂災害によって寸断されたため、自衛隊や消防、ボランティアも入ることができず、公的な援助は一切受けられなかった。そこで町内会の有志たちや地元の建築業関係者や高校生たちが中心となって、土砂かき出しなども行った。

この件については安芸区社会福祉協議会も、
「例えば職員やボランティアを派遣できない時には、物資機材だけでもなんとか届けるようにするとか、あらゆる方法を検討することが今後の課題だと感じています」と今回の反省を活かした新しい仕組みづくりを検討中だ。

豪雨体験を後世の教訓へ

矢野町社会福祉協議会の地域福祉推進委員の横山登三雄さん(写真左)は、今回の災害を後世にどう伝え、どのようにつなげていくかということが課題だと感じている。

「矢野町で雨による大きな災害は111年前に一度あって、そのことを記した石碑もあったんですが、漢文で書いてあって我々も何が書いてあるのかわからなかったんですね。今回の経験は後世にきちんと伝わるようにしないといけないということで新たな看板を設置しました」

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災害が起きた時の被害をどれだけ最小限に抑えられるか、そのための防災をどうするかと考えた時、地域力というのは一つの鍵だ。
一方で、現代社会では町内会や自治会、子ども会など地域活動を支える世話人や役員を引き受ける人はどんどん減少していて、そうした団体の存続すら危ぶまれる地域も多くある。

今のように便利で豊かになった生活では、確かにそうした地域活動の必要性を感じるシーンは少ない。しかし、災害時に求められるのは結局、そうした普段から地道に積み上げられた地域力なのだろう。

皆さんのお住まいの地域は果たしてどうだろうか。
災害の教訓の一つとして、自分と地域との関わり方について見直すいい機会かもしれない。
いまできること取材班
写真・文 イソナガアキコ

「平成30年7月豪雨から一年 復興二年目のいまできること」特集ページ

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