パンを売らない4日間~被災地のベーカリーが問いかけた「食」と「感謝」

フェイスブックで偶然、「パンを売るのをやめました」の文を見つけた。平成30年7月豪雨から約1年後の7月4日のことだ。SNS上で「パンを売らない宣言」をした主は、災害がひどかった広島市安芸区阿戸にあるベーカリー「山のパネテリエ」。発災数日後から2カ月以上にわたり避難所にパンを届け続けた、店主のはまむらたろうさんに話を聞いた。

緑がいっぱいの細い山道をどんどん上がっていくと、左手に見えてくる「山のパネテリエ」。もともとこの場所に「山のパン屋さん」があり、当時のオーナーの手伝いをするなどして交流のあったはまむらさんが、2011年に店の運営を任された。

はまむらさんは、地域の特産品の商品開発をし、地域間交流や全国への魅力発信をプロデュースする「ローカルメイド」の代表。店を託されてからは、プロデュース業のかたわら、「山のパネテリエ」を運営してきた。

豪雨の夜は、食材の買い出しで広島市内にいたはまむらさん。店や、その周囲の状況、常連さんのことが心配だったが、周囲は混乱し大渋滞。店にたどり着いたのは7月9日だったという。

「崩れている箇所もたくさんあり、店に着くまで大変でしたが、幸い水は使えましたし、電気もガスも問題はありませんでした。しかし、その時はお客様に来ていただく状況ではないな、と」

店を開くことを断念したはまむらさんは、仕事でつながりのあったデパートの厚意でパンを販売させてもらいながら、店舗の復活を考えていた。

すると、まだ復旧途中の道を上がって、一人のおばあさんがやってきた。「娘と孫が、熊野町民体育館で避難所生活を送っている。スーパーにはパンが並んでいない。ここのパンが食べたいと言っている」と打ち明けられたはまむらさんは、居ても立ってもいられなくなった。

「だったら、毎朝持っていってあげるよ!」と、即答したという。

 

2018年7月13日

小さいしょくぱん、あんぱんを焼いて、避難所へ持っていった。もちろん無料だ。

“明日はチーズのパンとかアーモンドの甘いパンも持ってきます。こんなことしかできませんが、好きなものなどおしえてください!ぼくらも一緒です。むりせず一歩ずつ”

焼きたてのパンのそばに、そっとメッセージを置いた。

連絡先も書いた。

(山のパネテリエ フェイスブックページより)

 

「明日も持ってきます」と書いたからには、明日も行く。

朝7時に持っていくために、夜9時からパン製造を始めるという毎日がスタートした。

「パンがある」と知って、被災後も自宅で寝泊まりしていた人や「土砂撤去作業に出るから早く届けてね」と待ちわびる人、みんなが待ってくれた。いつの間にか、焼くパンの種類が増えた。

小麦粉やイーストといった材料を同業者が分けてくれたり、フェイスブックではまむらさんの取り組みを知った人たちが支援金を振り込んでくれたりした。ラジオやテレビで活動が報道されると、近くの坂町や安芸区矢野の避難所からも「パンが食べたい」という声が寄せられた。はまむらさんは、もちろん断らなかった。

避難所が閉鎖されるまでの3カ月間、ひたすら無償でパンを焼き、避難所に届けた。

走り抜けた3カ月間を、はまむらさんはこう振り返っている。

“どうしようもなくなったら止めればいい、と思いながらも沢山のお客様と、この活動を知って下さった沢山の方々に支えられ、何度も奇跡的な出会いや、涙の出るような計らいをいただきながら、9月末まで各地の避難所に焼きたてのパンを届け続けさせていただくことができました。これは、単に私たちの努力などではなく、みなさまの想いの深さ、大きさ、温かさ故のものだと、骨身に沁みて感じています”

 

12月19日には、避難所への朝食について、安芸区長から感謝状を授与された。「安芸区の沢山の方々から感謝の声をいただいているそうです。うれしかったです」とはまむらさん。

(山のパネテリエ フェイスブックページより)

一時は資金が底をついたときもあったという。間違った理解から、中傷もあったという。

それでも「お一人おひとりが私たちと一緒にこの災害と戦ってくださいました。私達にとってもヒーローであり、チームだと思っています。そんなお一人おひとりを思い浮かべながら、とても充実した時間を過ごしています。本当に、では言い尽くせない程、ありがとうございました」と、心からの感謝を述べるはまむらさん。次に自分ができることは、お客様に元気な姿を見せることだと、今年3月の再開を決意する。

 

避難所での無料のパン提供を通じて、はまむらさんが思い至ったことがある。

「いただいた寄付を増やすためにパンを焼く。材料費などを引いて、残った利益を有事の活動資金にできないか」「NPOやボランティア団体はどこも活動が苦しい、資金調達の方法はないか」と。

そこで今年1月に誕生したのが、「ビスキーサンド」だ。原材料代のみをいただき、販売した利益を全て販売した団体の活動資金とするのだ。

“豪雨からの復興だけではなく、地域活動や、地元の活性化など、その目的をお知らせいただき、ご相談ください。私達にもできる事のひとつとしてお手伝いさせていただきます”

ビスキーサンド(山のパネテリエ フェイスブックページより)

3月1日に店舗での販売を再開。以来、被災地を中心に、イベント出店も続けている。久しぶりの再会があったり、避難所でのパンの感謝を伝えられたりすると、何よりうれしい。しかし、心の中に消え去らない思いがあった。「毎日、私たちが無償でパンを差し上げる行為は、避難所の人にとって気を遣うものではなかったか」と。そんな気持ちが、災害後1年を迎えるにつれ、大きくなっていった。

 

2019年7月4日

“パンを売るのをやめました。
大雨から一年、今週は特別な想いでお店に立ちたいとは思いながら、あの日から今日までに私達の感じたものを形として表す方法が見当たらない日々を過ごしていました。そして出た結論は、今週の四日間、パンを売らないという事でした。みなさま今週は食べきれるだけパンをお持ち帰りくださいませ。お値段はこの試みに賛同いただけるお客さまに委ねます。もちろん無償でも結構です。パンを焼けている今日に感謝して、精一杯ご用意させていただきますね”

パンには、手紙をそっと添えた。

“被災した方々は、ただ単に届いたパンを召し上がっていたのでは無い気がします。申し訳無いし、食欲もない。ダンボールの中で過ごす暑苦しい毎朝、自分が避難所で、このパンを貰っていていたらどんな気持ちだったのか。復興半ばの1年、我々も食についてもう一度、一緒に考えてみませんか”

安芸区から訪れた親子は、この店の数年来のファン。「活動はSNSでずっと見ていた。支援につながることがあれば協力したい」と母親。

4日間、投げ銭パン屋は大盛況だった。終わってみれば、テーブルの上に置きっぱなしだった箱の中に、お札がたくさん詰め込まれていた。1000円札、5000円札が何枚も……。“世の中は想像出来ない程の善意に溢れている” と、はまむらさんは当時の気持ちをフェイスブックで語っている。

(7月7日の山のパネテリエ フェイスブックページより)

預かったお金は、8月1~2日、広島駅南口エールエール地下広場で予定されている「ボラ写展」の出店用パン代に使われる。

なぜ投げ銭なのか、理由を知ってほしい。災害のことを忘れず、心に留めてほしい。

「山のパネテリエ」のパンを食べながら、1年前の災害に思いを馳せてみたら、見えてくるものがきっとある。

 

いまできること取材班
取材・文 門田聖子(ぶるぼん企画室)
写真 堀行丈治(ぶるぼん企画室)

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