音楽が聴こえてきた街:スカタライツ伝説の初来日公演と汐留PIT 1989年 4月29日 スカタライツが初来日公演を汐留PIT2で開催した日

街に対するイメージというものは、人それぞれの経験値や思い入れで、ずいぶんと違って見えるものだ。例えば新橋。よくテレビの情報番組に映し出される駅前の SL 広場には、働くお父さんたちのひたむきさと哀愁が混ざり合った東京の家族を支える原動力のような逞しさを感じる。乱立したビルの裏通りには、安くて美味い居酒屋や定食屋が軒を連ねる。働く男たちのオアシスだ。

この近隣が旧地名のレトロチックなネーミング、「汐留」とも再び呼ばれるようになったのは何時からだろう。2003年にはこの地に電通、日本テレビが移転し、日本のメディアの心臓部といっても過言ではない場所となった。そんな経緯もあって、汐留というネーミングからは、何故か洒落たバブリーな匂いを感じ取ることができる。

80年代の終わり、そして昭和の終わり。中野サンプラザや渋谷公会堂、新宿厚生年金会館などが代名詞となっていたホール・コンサートはもう古いとばかりに、都市型最先端のライブが連日繰り広げられる新感覚のヴェニューが話題となっていた。インクスティック芝浦ファクトリー、MZA有明、日清パワーステーション… そして、ここ汐留に当初期間限定でオープンされたのが汐留PITだ。

現在の新橋駅からほどなく歩いた、貨物ターミナル「汐留駅」の跡地に3000人の集客を擁する巨大テントが立ち上がったのが88年の3月21日。この日から5月31日までの72日間、この場所で錚々たるアーティストのライブが連日繰り広げられていた。

幾つかのアーティストを羅列してみると… RCサクセション、アースシェイカー、アン・ルイス、ARB、カルロス・トシキ&オメガトライブ、沢田研二、SION、BUCK-TICK、ミュート・ビート、レベッカ…

大型ビデオプロジェクターが鎮座し、武道館に匹敵する特大サイズのステージで旬のアーティストが縦横無尽に暴れ回り、数々の伝説が生まれた。ちなみに PIT とは、Pia Intermedia Theater の略。そう。当時飛ぶ鳥を落とす勢いだった映画、音楽、演劇のエンタテインメント総合情報誌『ぴあ』が母体となっていた。ぴあといえば、84年にチケット流通の革命を起こしたサービス、『チケットぴあ』をスタートさせるなど、80年代の音楽ファンにとっては切っても切れない間柄にあった。

閑話休題。この汐留PIT。期間限定でクロージングしたのだが、周囲の熱望により、再び「汐留PIT2」として復活。この時期に僕にとって忘れることのできない音楽体験があった。

音楽のジャンルが多様化し、出尽くし感があったこの時期に僕らが退屈しなかったのは、新しい価値観が決して最新のテクノロジーに頼っているものではなかったということが分かったからではないだろうか。その流れがグッと深まったのが80年代の終わりにかけてからだ。

80年代の終わりに音楽が深まってきた要因はふたつある。それは「遡ること」と「結びつける」ことだ。ジャンルに固執した音楽の聴き方というのが、ここから次第に溶けていったように思う。これが、音楽と共に心が豊かになれたきっかけだ。

そんなリアリティを一番体感できたのは、平成に元号が変わり、消費税が導入された89年4月29日と30日、連日汐留PIT2で行われた、スカタライツの初来日公演だ。

まだオリジナル・スカという言葉も浸透していなかったあの頃、そのオリジネイタ―であるジャマイカ出身のレジェンドが来日するというのは、とびっきりのニュースだった。

あの頃の東京のストリートを思い返してみると、どんな音楽を聴いているかという自己主張が今以上に激しい時代だった。ボンテージパンツにガーゼシャツをきたパンクス、ホワイトジーンズにサスペンダーを垂らしたスキンズ、ショットのライダースを着たロカビリー、フレッドペリーのポロシャツをきたモッズ、それぞれが音楽ジャンルに固執し、生活の根底に音楽があった時代。

そんな不良少年、少女たちが、一気に集結し、ジャンルの枠を超えて「結びつき」盛り上がったのがスカタライツの初来日だった。オーセンティックなスカに酔いしれ、美空ひばりの「リンゴ追分」を元ネタにした「RINGO」がプレイされると、あの場所にいた全ての人が笑顔で踊りまくっていた。そして各自がそれまで固執していたジャンルの壁を飛び越え、来るべき90年代という新しい時代に向き合っていったんだと思う。

彼らのほとんどが、ロック系のクラブでプレイされているセットリストの中からスペシャルズやザ・クラッシュに親しみ、彼らのルーツである、スカ、レゲエを「遡る」ことで、スカタライツに出逢う。つまり80年代終わりの東京では、その26年前、63年に結成されたバンドが最先端だったのだ。

ジャズから派生し、ジャマイカの土着的なイメージの強いスカタライツのオリジナル・スカは、テクノロジーが先行して語られていた80年代の終わりに最先端と語られるのはちょっと異質だった。しかし、この「遡れば遡るほど新しい」という異質さこそが、この時代の恩恵だったように思う。そんな感覚をキャッチできるアンテナを張る感性があれば、インターネットがなくても SNS で繋がっていなくても、クラブで、ショップで、口コミで、極上の音楽と出会えるきっかけが街にはいくらでも転がっていたのだ。

スカタライツに出逢い「遡ること」そして「結びつけること」このふたつが80年代に音楽を聴いていたものにとっての収穫だったと思う。時代は90年代に入ると、よりミクスチャー化が活発になり、音楽は多様性を極めてくる。その礎のふたつとなったのがオリジナル・スカの台頭だったと改めて思う。これを「汐留」というレトロチックな旧地名の場所で体感できたことは、今となっても得難い思い出だ。

汐留という地名が洒落た未来的な匂いを醸し出すように、スカタライツの奏でるオリジナル・スカは80年代の終わりも今も時代に揺さぶられることのないとびっきりの最新型なのだ。

カタリベ: 本田隆

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