麥田俊一の「偏愛的モード私観」 第7話「ヨウヘイオオノ」

2019-20年秋冬コレクション PHOTO: Kengo Kidera

 売文を活計の手段としているくせに、随分と意気地のないことだと揶揄されようが、言葉にならないものは、無理に言葉に置き換えない方が良い場合だってある。センチメンタルに溺れてべらべら喋ってしまうなら、自分の感傷的な言葉の響きのみが独り歩きして、何処までも嘘臭くなってしまう。とは云うものの、どうしたって禿筆を弄して書いてしまうから、これはいけない。「ヨウヘイオオノ」の大野陽平が今回の主役。またぞろ歯の浮く追従と受け取られても仕方がないのだけれど、見受けるところ、寛々たる自恃の色の仄見えるのは、多分何か期するところがあるからに違いない。些かの疑念の翳もささぬ確固不動たる面持ちとまで云い切ると、禿びた筆も、これは乗り過ぎと云うところか。大成するや否や判りかねるけれど、大野に、私は作り手として問わねばならない筋金を感じ、彼に賭けてみたい、そんな気がしたのだった。

 ブランドの規模を考えると、相当な通人でもなければ、彼の横顔は知られていない筈だから、ここでざっと紹介しておく。1986年愛知県生まれ。早稲田大学を中退後、文化服装学院に入学。文化ファッション大学院大学を経て、英国のノッティンガム芸術大学にて学ぶ。帰国後の2014年12月に「ヨウヘイオオノ」を立ち上げ、2015-16年秋冬シーズンよりブランドを開始している。2016年10月には「TOKYO FASHION AWARD 2017」を受賞。2017-18年秋冬シーズンにて初のファッションショーを敢行。続くシーズンもショーで見せている。アナクロニズム的なグラフィックと近未来的な素材を使った最初のショーは好評を得ていたものの、私にはサッパリ彼の意図が判らなかった。否、寧ろ、このような上出来でない内容で安易に持ち上げられていては後々のためにならないと思ったから、番度、本人の眼前で勝手な苦言を述べる「矢野八郎(ヤナヤロウ)」を演じてもみた。なるほど、数多の甘言に迎えられもし、知名度向上に一役買うことにもなったのだけれど、自らの創作世界の体幹を定める以前の彼には、それをじっくり見据えることがままならぬ間に、ショーと云う、彼のような状況にある作り手にとっては、或る意味で、実のない見せ方と向き合う羽目に陥ってしまった。蓋し受賞と云う奇貨が裏目となった。上げた産声の未だ止まぬブランドが、ショーと云う大舞台に向かうのだから、気負いもあった筈。無駄を削いだ軽さと、装飾が引き出す硬質感を巧くバランスさせるプロダクトデザイン式の大野の流儀は、結果、手数の多い細工で稀釈されてしまった。だが、直ぐと、そのブレは軌道修正されている。間、髪を容れずに発表したインスタレーション(2018-19年秋冬)を機に、その創作は漸次鍛え上げられていくことになるのだった。

 同じく東京を拠点に活動するデザイナー、たとえば、横澤琴葉を例に挙げてみよう。彼女の服をこよなく愛する女の子に限りなく近い感覚を、服作りの武器とする横澤は、自分の創作世界の根幹をなす日常性(「コトハヨコザワ」の定番となるプリーツ生地が、その利便性を以て証明しているではないか)に、意表外の非日常(ちょっとした違和感)をひと匙加えることで、女の子の日常を魅力的な世界へと拡張している。これが如何にも等身大で、当世風なのだ。なるほど、女性が女性の服を作るのは、作る過程で自らが検証しながら作業を進めて行くことが可能なので、その強みと云ったら、もう初手の段階で男に大きく先んじている。他方、男が女の服を作ることの利点もある。一生を賭としても理解することなど出来ぬ、永遠のテーマとしての女性性に果敢に向き合う時に生じる様々な想念(たとえば、畏怖の念でも良いだろう)は、創作の内燃機関を活発に運動させる活力となり得る。即ち、女性の作り手とは違ったベクトルを女の服に立てることも出来るのだ。

 では、大野の場合はどうか。彼の服には、女の匂いが薄い。まぁ、それが一つの魅力でもあるし、向後、女性の肌の温もりを感じさせる服に変わっていくかも知れない。現に、上述のインスタレーションでは、ふとしたモデルの仕草に女を感じさせる刹那があり、最新作(2019−20年秋冬)にも微かにその痕跡をとどめている。大野の語り口は、ピリッと辛口ではないし、寧ろ愚図っとしてはいるけれど、それはそれ、或る種の突っ張った文体と云っても良いだろう。彼に惹かれた人の数だけ、彼の魅力は無尽蔵なのだ。

 と云うのも、服に女性の温もりが極めて薄い代わりに、彼の時代離れした構えに私は惹かれるのだ。「時流」とか「流行」とかが「今」と云った曖昧な言葉で日々括られていくものを指すのであれば、そんなものに、彼は敢えて反旗を翻したりなどしない。寧ろ、正統とか前衛とか云う概念の殆ど成立し得ないところに、これからの大野の創作世界は生きていく筈だ。端より時代感覚を投げ遣るのではない。所謂真空地帯に、自らの創作意識を立てようと云うのだ。「商売を抜きにしたら、自分の創作には、必ずしも女性の存在は要らないと思っている。椅子とか壺を作る感覚で服を作る。これが究極の理想だけれど、それではビジネスとして成立しないのは分かっているから、一応着地点となる女性像は想定している。しばしば彫刻的な服だと形容されることがある。一着の服が、オブジェ的な形と、実際に快適に暮らしていける形とを共有出来るデザインを目指している。ただの着易いと云う言葉は好きではない」と大野は語っている。こうした反時代的な考え方は、プッツン(古い表現で恐縮だけれど)と云うよりは、少しく間の抜けたように聞こえるかも知れないけれど、金太郎飴式の服が蔓延る、一向に尻腰のない今の東京にあっては、本人が意図しているかは扨措くとしても、一種のアナーキーなステイトメントであることは確かである。

 何よりも形を愛する彼に固有の視座は、内容(女性性)よりも、それを包む形態(服としての形状)の方を偏愛する傾向にあるのだが、果たして、最新作のオブジェのようなジャケットは、生身の身体が入ると、野暮ったさが不思議な味わいに変換されるのだから面白い。オブジェと形容したのには、それなりの理由がある。形(=服)は、常に静的に、自らの原理性の中に存在し、それは、内容(=着る人)のように無秩序に、或いは、自由に、多方向に走り出したりはしない、飽く迄もスタティックなものだ。例えるならば、音一つしない無菌室のような空間に無機的な迄にひっそりと並べ置かれた服を、飽くこともなく見詰めている感じ。最新作の服の一部は、そんな感覚を想起させたからだ。

 このオブジェ的な創作意識は、これ迄の大野の作品に於いて、様々な変奏で幾度も奏でられてきた主題なのである。また今は、形こそが、彼にとっての重要なモチーフなのだし、彼が抽象概念やプロダクトデザインを好むのも、それらの中には形の純粋性(清潔さとか硬質感のあると云う意味で)が保たれていて、そこには多分、女性の生な情感のようなものが入り込む余地が残されていないのかも知れない。(麥田俊一、ファッションジャーナリスト)

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