ピンク・レディー涙の解散とアメリカ進出の真実 ― 決して失敗ではなかった 1979年 8月4日 ピンク・レディーのシングル「Kiss In The Dark」がビルボードHOT100で最高位(37位)を記録した日

日本テレビ『スター誕生!』で合格し、1976年8月に「ペッパー警部」でデビュー後、秋には人気に火が点いて新人賞を獲得。翌年からはミリオンヒットを連ねて社会現象にまで至るほどの一大ブームを巻き起こしたピンク・レディーであったが、人気の絶頂期はそれほど長くは続かなかった。

ヒットの連弾から少し遠ざかっていた80年、9月1日に7ヶ月後の解散が発表される。そして迎えた解散コンサートの日、81年3月31日はあいにくの雨模様。観客も満席には至らず、3年前に同じ後楽園球場で解散したキャンディーズとどうしても比較されてしまうのは少々気の毒であった。それでも2万人に近い観客を集め、悪天候の中で余すことなくレパートリーを披露し、力いっぱい歌って踊って燃え尽きたピンク・レディーはスーパースターに相応しい有終の美を飾ったのである。

一般的にピンク・レディーの曲が盛んに歌われたり、語られたりするのは、だいたい78年冬の「カメレオン・アーミー」くらいまでで、翌79年春に出された「ジパング」が「S・O・S」以来続いていた連続1位記録を逃した辺りから急速にトーンダウンしてゆく。

とはいえ、同年の「ピンク・タイフーン」や「波乗りパイレーツ」はまだまだメジャーだろう。ヴィレッジ・ピープルの「In The Navy」をカヴァーした「ピンク・タイフーン」は渋谷哲平の「ヤング・セーラーマン」との競作で知られるし、「波乗りパイレーツ」はB面の USA 吹込ヴァージョンにビーチ・ボーイズがコーラス参加したのが話題になった。そして次の「Kiss In The Dark(キッス・イン・ザ・ダーク)」は全米デビューシングルとなった一曲。

「カメレオン・アーミー」が1位を獲った頃、当然出場すると思われていた78年大晦日の『NHK 紅白歌合戦』を辞退し、彼女たちは新宿コマ劇場から生中継された日本テレビのチャリティー番組『ピンク・レディー汗と涙の大晦日150分!!』に出演する。今思えば、怪物番組の紅白の裏で8.2%という数字は大健闘なのだが、その後の人気失速の要因となるマイナスイメージに繋がってしまったことは否めない。

しかしそれは、デビュー以来ピンク・レディーのマネージャーを務めてきた相馬一比古氏が抱いていた、ピンク・レディーのアメリカ進出の夢を実現させるに至るまでの型破りな策略のひとつなのであった。その辺りの経緯は、元・日本テレビの伝説のテレビマン、井原高忠氏の著書『元祖テレビ屋大奮戦!』(83年 文藝春秋刊)に詳しい。

79年になり、水面下で進められていたアメリカでの活動への準備が整い、遂には全米デビューの実現となった「Kiss In The Dark」はビルボード総合で37位にランキングされる。

一見地味なようだが、日本人のチャートインは坂本九「Sukiyaki(上を向いて歩こう)」以来の快挙であり、その後、全米三大ネットワークのひとつ、NBC のゴールデンタイムで冠番組を持つなど、予想以上の活躍を見せた。世評では失敗のように扱われることが多いピンク・レディーのアメリカ進出だが、実はそれなりの実績を上げており、決して失敗ではなかったのだ。いや、むしろ成功の部類に入るのではないだろうか。

そんなアメリカデビューの影響で、日本国内では「Kiss In The Dark」とわずか4日違いの異例のリリースとなった15枚目のシングル「マンデー・モナリザ・クラブ」は、デビューからずっとふたりの曲を手がけてきた阿久悠と都倉俊一が、それまでの商業的な曲から発想を変え、ピンク・レディーのふたりのために提供した作品であった。ケイは今でもこの曲が一番好きだと公言している。

22枚目にして解散前のラストシングルとなった81年3月の「OH!」も同じような意図で、詞先行で作られた作品だという。生みの親であり育ての親でもあるふたりの深い愛が感じられる楽曲である。

ちなみに “ピンク・レディー” の名付け親は都倉俊一で、“レディース” でなく “レディー” なのは、命名のヒントになったというカクテルのようにミーとケイが一つに溶け合って一体になってほしいという意味からつけられたものであるという。

2017年12月30日、故・阿久悠がレコード大賞の特別賞を受賞したのを記念して久しぶりに復活したピンク・レディー。「UFO」でグランプリを獲った78年以来、実に39年ぶりとなる同番組の出演が話題を呼び、一年後、2018年のレコード大賞でも恩師・高橋圭三への追悼の意を込めて再び最高のパフォーマンスを見せてくれた。6分半に及んだメドレーは歌も振り付けもこれ以上ない素晴らしさで一体化しており、国民的なアイドルデュオが今後また活動を再開してくれる夢を我々に抱かせてくれた。近い将来、きっとまたその日が来ることを願ってやまない。

昭和から平成、そして令和でもまたピンク・レディーが観られますように。

※2019年3月31日に掲載された記事をアップデート

カタリベ: 鈴木啓之

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