さだまさし「道化師のソネット」とサーカスの裏側にある深い悲しみ 1980年 2月25日 さだまさしのシングル「道化師のソネット」がリリースされた日

僕は通勤に車を使っている。先日、いつもの通勤ルートが何故か混んでいた。仕方なく脇道から別ルートを使って大通りへ抜けようとして、偶然「木下大サーカス」の大きなテントを見つけてしまった。どうやら巡業でこの地にやってきたようだ。

住宅建設予定地の区画整理された広い敷地に真っ赤なテントが設営されていて、周りには売店などのプレハブ小屋がたくさん設営されていた。そのテントから親子連れやカップルが長蛇の列を成していて道路を狭めている…

「これじゃぁ道路も渋滞するわけだ… きっと今日の公演は大盛況だろうなぁ」なんて思いながら、気がつけば僕のリマインド心にしっかりと火がついていた。そう、『翔べイカロスの翼』という映画を思い出したのだ。

さて、今回のコラムは同映画の主題歌で、さだまさしの歌う「道化師のソネット」について語ってみたい。

その前に、このコラムを読んでいるあなたにちょっと訊いてみたい。サーカスの公演をテレビではなく会場で観たことがあるだろうか? 僕はサーカスの公演を小学生のときに観たことがあって、そのときテレビで観た印象と明らかに違う物哀しさを覚えた記憶がある。

僕が初めてサーカスをテレビで観た記憶では、きらびやかな衣装を身にまとった演者が眩しいくらいのスポットライトに照らされていて、ドラムロールからシンバルの音で次々と技を披露する… そんな迫力ある華やかな映像が全てだった。

ところが実際に会場で観たサーカスは、ステージ全体が明るいわけでなく、ちょっと薄暗い中でスポットライトに照らされた部分だけ生々しく主張している感じだった。そしてテレビ画面に映らない部分… たとえばステージ脇の舞台袖は思った以上に暗いスペースなのである。

そのときの僕は舞台のパフォーマンスより、舞台袖でじっと待機する象に注目してしまった。何故ならその象は仄暗いテントの中からどこか遠くを見つめ、その瞳が涙で潤んでいるように見えてしまったからだ。

「きっとこの象は、遠い国で親と引き離されサーカスに連れて来られ、ムチで叩かれ見世物にされている… もう親に会うことや故郷に帰ることはない。二度とないんだ…」

などとつい悪いクセで妄想してしまった僕は、公演の途中だったけれど哀しみと寂しさで胸がいっぱいになってしまったのだ。

そしてちょっと怖い感覚…「あんまり悪い子だと、サーカスに売り飛ばすぞ」なんて子どもを脅す言葉の雰囲気も薄っすら感じ取ってしまっていた。

「サーカス」と「見世物小屋」は違うものだけれど、その昔は見世物小屋も犬や猿の曲芸や玉乗りなどというサーカス同様の興行も兼ねていたので一緒くたにされたのだろう。

映画で言えば『グレイテスト・ショーマン』(2017年 / アメリカ)、もっと攻め込むと『エレファント・マン』(1980年 / イギリス・アメリカ合作)あたりが見世物小屋のドロドロした雰囲気を感じられる。「サーカスに売り飛ばすぞ」とは、冗談抜きで怖い言葉だったのだ。

閑話休題。本題はさだまさしの「道化師のソネット」である。

「道化師のソネット」は、映画『翔べイカロスの翼』(1980年2月公開)の主題歌で1980年2月にリリースされた。この優しさと切なさに満ち溢れた曲は、同映画の内容から着想して書き下ろされたもので、さだまさしの代表作の一つである。

ちなみにタイトルにある「ソネット」とは十四行から成るヨーロッパの定型詩のことである。ソネット作家でもっとも有名な人物は、ウィリアム・シェイクスピアだろう。154篇の十四行詩を残している。

そしてこの「道化師のソネット」もソネット形式どおり十四行に歌詞がまとめられている。さだまさし本人は、「神様っているのかも…」などと偶然の産物のようなコメントを残しているけれど、博識なさだまさしのことである… きっちり悩みぬいて十四行に収めた確信犯だと僕は思っている。

さて、この「道化師のソネット」は、映画『翔べイカロスの翼』のエンディングで流れるのだが、この映画は歌の曲調からは想像のできない衝撃的な内容の結末が待っている。

写真家を目指す主人公栗原徹(さだまさし)は、撮影の題材に選んだサーカスのショーに魅せられ入団を決めてしまう。その後ピエロとして才能を発揮して活躍を重ねてゆくが、人気に押されるがゆえに幕間をつなぐピエロとしての役割を超え難易度の高い綱渡りに挑戦… そして落下。栗原は若くして天に召されてしまった―― というあらすじだが、これは実話が元になった映画である。

僕はこの映画を市が運営するコミュニティーセンターで偶然観ることが出来た。そう、この映画は全国公開ではないインディーズ映画だったのだ。映画は哀しい結末だったけれど、それでも主題歌の「道化師のソネット」はどこか希望を感じさせるメロディーであり、そのときはなんだか救われた気持ちになれた。

では歌詞とメロディーを追ってみよう。ピアノのイントロからダイナミックにサビから入るという構成。メロディーも歌詞もドラマチックであり、そのひとつひとつの歌詞にとても考えさせられてしまう。

 笑ってよ君のために  笑ってよ僕のために  きっと誰もが  同じ河のほとりを歩いている

「同じ河のほとりを歩いている」という歌詞が、とても大きな人生観を感じてならない。「笑う」という意味は、流れゆく人生に差し込む細やかな幸せの光なのだ。

 君のその小さな手には  持ちきれない程の哀しみを  せめて笑顔が救うのなら  僕は道化師になれるよ

ピエロの役割とは、とにかく笑われる存在であり続けることである。よく同じ道化師のクラウンとピエロを混同する人がいるけれど、クラウンの顔には涙が描かれない… マクドナルドのキャラクターであるドナルド・マクドナルドを見れば一目瞭然だ。

クラウンは人をバカにしたり、お節介をして笑いを取るけれど、ピエロはひたすらバカにされ続ける役割なのだ。「自分が傷ついても周りが笑ってくれれば僕は幸せ」ということである。

そのバカにされ続けた傷の痛みを悟らせないように演じきる… そんな深い悲しみが、あの白塗りの顔に描かれる涙なのだ。だからこそ「僕は道化師になろう」という歌詞の持つ意味が大きく響くのだ。

ここ数日お笑い芸人を巡って問題が発展してしまい笑えない空気が蔓延している。その渦中の人でもあるダウンタウンの松本人志さん… 彼自身がこの「道化師のソネット」の歌詞に対し「これは芸人の根本だ」と影響を受けたエピソードがある。

芸人が泣いて謝罪をする。それを表に出してはいけなかった。芸人はどんなに辛くてもピエロを演じるべきで笑いに変えなくてはいけない。そんなピエロの信念を松本さんは常に抱いているのだろう。

いま SNS の力で物事のウラ側があからさまになることが多い。でも舞台裏を知らないからこそ純粋に楽しめることが世の中にはたくさんある。僕らはピエロが努力する姿なんて見たくないし、ましてやピエロの涙なんか見たくない。眩いばかりのスポットライトの下で最高のパフォーマンスがあったら、それだけでいいんだ。

カタリベ: ミチュルル©︎

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