日本教育史上最大の悲劇 朝鮮半島出身者は数えず

ヒロシマの語り部(上)

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江刺昭子

女性史研究者

江刺昭子

女性史研究者

えさし・あきこ 広島市出身、早大卒。原爆作家・大田洋子の評伝「草饐(くさずえ)」で田村俊子賞。著書に「女のくせに 草分けの女性新聞記者たち」「樺美智子 聖少女伝説」など多数。

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「中1の犠牲者が一番多いのよ」と語りかける関千枝子さん

 広島市の中心部を東西に貫く幅100㍍の道路がある。平和大通りと呼ばれる。濃い緑に覆われた緑地帯には原爆慰霊碑やモニュメントが散在する。学校関係の碑もあるのは、8月6日にここが少年少女たちの墓場になったからだ。

 1945年8月、広島では防火帯作りを急いでいた。強制的に住民を立ち退かせ、家を引き倒し空き地にするのだ。

 壊した家の残骸を片付けるために動員されたのが広島市内の国民学校高等科、女学校、中学校の生徒たち。炎天下、約5000人が働いていた。その頭上に原爆が投下され、ほとんどが爆死するか重症を負った。

 県立第二高等女学校2年生だった関千枝子さんは、その日おなかをこわして学校を休んだため死なずにすんだ。作業に出ていたクラスメート39人のうち生還したのは1人だけ。

 戦後、新聞記者になったが、生き残ってすまないという気持ちがつきまとった。

 それを前向きに変えるには、事実を明らかにして記録することだと思い至り、級友全員の死までの足どりを求めて遺族を訪ね歩く。1985年、ノンフィクション『広島第二県女二年西組』としてまとめた。

 その後も関さんは東京から広島に通い続け、原爆問題に取り組んでいる。その一つが平和学習の生徒たちに被爆の実態を伝えるフィールドワークだ。

 動員された生徒たちが犠牲になったことを話し、その中で「あなたたちと同じ年齢、中1の犠牲者が一番多かったのよ。知っている?」と聞く。みな、首を振る。広島の中学生さえ知らない。

 関さんは書いている。「日本教育史上最大の悲劇と言われるのに、あまりにもこの事実が知られていない。継承されていない」(『ヒロシマの少年少女たち―原爆、靖国、朝鮮半島出身者』)。

 当日、広島市の動員学徒は2万6800人で7200人が原爆の犠牲になったとされる(広島平和記念資料館編『動員学徒―失われた子どもたちの明日』)。

 しかし、この数字は正確ではない。戦後、廃校になった私立女学校や国民学校高等科に関してはほとんど記録が残っていない。

 高等科に多かった朝鮮半島出身者は、戦後日本籍を失ったり、帰国したりしたため犠牲者として数えられていない。

 「これを放っておいていいのですか」と彼女は言う。

 87歳になった今春、大腿(だいたい)骨を骨折して入院したが、8月に入ると、杖をひきながら広島に発って行った。(女性史研究者・江刺昭子)=この項続く