29年後に頬破ったガラス片 語れない思いを語る ヒロシマの語り部(下)

By 江刺昭子

古家美智子さん

 被爆はあまりにも悲惨な体験だったため、家族にさえ何も語らぬまま亡くなった人も多い。今まで沈黙してきたが、被爆者の高齢化が進むなか、やはり話さなければと「語り部」になる決心をした人がいる。古家(ふるや)美智子さん、77歳。

 3歳のとき爆心から1・2キロの中区上幟町(かみのぼりちょう)の屋内で被爆した。

 爆心に向いた側の顔から身体に無数のガラス破片を受け、落ちてきた天井や梁(はり)の下敷きになった。

 父親に救いだされたが、顔に傷が残った。29年後、知人がふざけて頬を軽くつねったら、入っていたガラス片が皮膚をつき破って出てきた。このガラス片(18ミリ×1ミリ×7ミリ)は広島原爆資料館に保存されている。

 東京に住んでいた頃の彼女と一緒に「1971年夏 東京―広島、愛と怒りのゼミナール」の反戦列車に乗ったことがある。列車内で若者たちがフォークソングを歌い議論して、翌日の平和記念式典に合わせ平和公園でダイ・インをした。

29年後、古家さんの皮膚を突き破って出てきたガラス片(古家さん提供)

 親しい友人なのに彼女から被爆状況をきちんと聞いたことがない。つらい思いを抱えているのは感じられたから、何も聞かないのが思いやりだと思った。

 その後、広島に戻った彼女は、うつ病や乳がんなどで入退院を繰り返し、被爆と無縁の日はなかったという。体の傷は癒えても、心の傷は癒えない。トラウマという言葉もない頃、いつも不安を抱えて生きてきた。

 そんな古家さんが一大決心をして、原爆被害者相談員の会が募集した「被爆者の自分史」に手記を応募し『生きる―被爆者の自分史―第5集』に掲載された。被爆から戦後の日々、何を喜び、悲しみ、苦しんだかが、端正な文章でつづられている。

 書いたことでふっきれたのか、改めて自分の体験を伝えていかなければならないと思い、昨年初めて語り部として人びとの前に立った。

 3歳のときの記憶はほとんどないが、両親や周辺の人から聞いた被爆状況、戦後の紆余(うよ)曲折を話した。

 女性の被爆者は一般に、男性より結婚差別を受けることが多く、被爆者であることを隠して被爆者手帳を申請しなかった人もいる。子どもを産むか産まないかの選択も迫られた。切実な内容だったが、聴衆のドイツ人留学生から、被爆当時の生々しい話をもっと聞きたかったと言われた。

 被爆者が抱え込んできた心の傷は外からは見えない。見えない傷は語っても理解されにくいから、より深刻だともいえる。

 原爆は目に見える傷を与えただけではない。人の心も殺した。心を抹殺するのが、どれほど非道なことか、分かってほしい。

 だから、彼女は今年も語り部として人びとの前に立つ。

 勇気を持って語り始めた人の話に耳を傾け、どれほどの深さでそれを受け止めるのか。そして、自らの生き方や政治的な意思決定に、どう生かしていくのか。

 問われているのはわたしたちである。(女性史研究者・江刺昭子)

日本教育史上最大の悲劇 ヒロシマの語り部(上)

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