聞き漏らすまい

 「やりたいことができない」のではなく「何をやりたいのか分からない」と20代半ばまで悩んでいた。亡くなって10年になる日本画家の平山郁夫さんは著書「ぶれない」(三笠書房)で若い日を振り返っている▲中学生のとき広島で被爆した。大人になって「何をやりたい?」と惑っているうち、原爆の苦しみに襲われる。階段で目まいがして、新聞を読むと目の前が真っ暗になる。もう長くはない、生きた証しを残したい。初めて強い創作意欲が湧いたという▲炎が渦巻く広島の町を不動明王が見下ろす「広島生変(しょうへん)図」は被爆体験に基づく唯一の大作とされる。筆を執ったとき、被爆から三十数年たっていた。原爆の苦しみは描く意欲を呼び覚ましたが、原爆を描くまでにはそれから長い時間を要している▲想像を絶する経験が、歳月を経て初めて絵になり、形になることもあるらしい。長崎で被爆した芥川賞作家の故林京子さんは、体験をつづった小説「祭りの場」で文壇に登場するまでに30年かかった▲きょうは「広島原爆の日」、鎮魂とともに、あの日を思い出し、思い描く日であり、繰り返さないと誓う日でもある▲被爆者の平均年齢は82歳を超えるが、近年になって体験を語り始める人もいると聞く。どなたかが長い沈黙を破るように発する声を聞き漏らすまい。(徹)

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