【特集】ドイツの若者は慰安婦問題を扱った映画「主戦場」をどう見たか 「歴史を知る」。それは「問い続ける」ということ

By 佐々木田鶴

映画「主戦場」の英語版ポスター(C)Mikine Films

 セミの声がやかましく感じられる季節になると、戦禍と原爆の犠牲になった方々への追悼の日々がやってくる。戦後70年余り―日本人は何を学び、どういう日本を目指してきたのか。日系アメリカ人のミキ・デザキ監督制作で慰安婦問題を扱ったドキュメンタリー映画「主戦場」は、その答えを求めて、見る者の心を激しく揺さぶる。国内でも一部ではロングランとなっているようだが、韓国はもとより欧米各地でも上映要請が相次いでいる。日本と同じように、敗戦国としての戦後を過ごしてきたドイツの若者は、この映画にどう反応したのだろう。

▼驚き、そして困惑

 日本ではさまざまな感想や評価がある「主戦場」。映画が上映されたドイツのデュイスブルク大とデュッセルドルフ大を訪れると、話を聞くことができた人々の大半が慰安婦問題を巡る日本の現状に驚きの声を上げた。

 「私が見たこともなかった、〝オソロシイ〟日本人の言動に混乱しています」

 日独ハーフのビビアンさんは、今にも泣きだしそうになりながらもそう絞り出した。映画では韓国人などに憎悪や差別に満ちあふれたヘイトスピーチをする人たちや笑みを浮かべながらも自身の考えと相いれない人たちに対して威圧的で偏見に満ちた発言を繰り返す政治家や学者、ジャーナリストたちが登場していたからだ。それは、彼女の知る「他者を思いやる優しい」日本人ではない。

 「僕はちょうど慰安婦像のことが問題となっていた2012年ごろ、ソウルに行くことになりました。すると、日本の家族や友人から、『気をつけろ、嫌がらせを受けるかもしれない』と忠告されていたのです。でも、そういうことは一切なかった。この映画を見て、慰安婦問題は、日韓問題なんかじゃなく、日本の右派がこれを利用してあおっている国内問題なのだということがわかってがくぜんとしました。日本の『中』にいる日本人にもそのことに気づいてほしい」。こう語ってくれたのは、背の高い日独ハーフの男子学生だ。

 大きな階段教室の中ほどに並んで座っていた5人の女子学生にも、上映後に話を聞いてみた。

 「21世紀の日本で、国際常識と言って良い歴史の事実を否定する発言が普通にできるの? 信じられない!」

 彼女たちは声をそろえて、驚きを口にするとこう続けた。

 「ドイツで、国会議員やジャーナリストがこんなこと言ったら、たちまち袋だたき。誰にもまともに取り合ってもらえなくなりますよ」

▼無関心ではいられない

 そうはいうものの、ドイツでもネオナチやポピュリスト政党が勢力を伸ばしている現実があるではないか。そう問うと「彼らが勢力を拡大しているのは事実。民主主義だから、極端な意見を持つ人がある程度いるのも仕方がない。でも、それが社会を覆い隠すようになった時の『危険』をドイツ人は歴史から学んでいる」ときっぱり。

 ドイツでも1970年代から80年代初めにかけて、戦争への反省や謝罪はもういいだろうというような声があがったのだという。「でも、その時大きく声をあげて抵抗したのは、若者だったんです。同じ過ちを繰り返したら、一番困るのは若者だから」。彼女たちは歴史を、自ら未来につながるものとして引き受けているのだ。

 「『慰安婦』の記述が日本の教科書から消されている!?」。 入れ墨と鼻ピアスが特徴の女子学生もびっくりしたように声を上げた。日本に2回留学したことがあるという彼女は、その当時に覚えた違和感に納得がいったとばかりに、こんなことを話してくれた。

 「どうりで、日本人の学生と歴史や社会問題の話をしようとしても、何も知らないばかりか、興味もなくて、話がかみ合わなかったわけですね」

映画「主戦場」の上映会と、それに伴い開催したシンポジウムのパンフレット。そこには「私たちは恐れずに問う!」と書かれていた (C)Taz

▼「過ち」こそ学ぶ

 日本では、2006年に教育基本法が改訂されて以降、教科書から「慰安婦」などの記載がなくなったことで、その後の世代は学校でこの問題について学ぶことはなくなった。さらに、1991年に元朝日新聞記者の植村隆さんが慰安婦について報じた複数の記事が2014年に問題視され、検証した朝日新聞が謝罪記事を掲載した一件以降、大手メディアが慰安婦について触れることもほとんどなくなった。一部のメディアが取り上げることはあるが、その内容は過剰に感情的だったり、非論理的なことが少なくない。こうして日本社会では、慰安婦や慰安婦問題をタブー視したり、偏った印象を持って語ることが多くなった。

 そんな現状を踏まえると、バックラッシュ(反動)が想定できるにもかかわらず、慰安婦を取り巻く議論を真正面に据えた映画「主戦場」をあえて作った動機は何だったのか? そう問われたデザキ監督は、こんな風に答えた。

 「教育から消し去られているなら、マスメディアが伝えないなら、映画で伝える理由がある。日系アメリカ人である自分は、それができる特別な立場にある。映画制作者としては映画祭などでの評価を大事にしたいのだが、映画としての芸術性や娯楽性を犠牲にしても、左右双方の議論を中心に伝えることにしたのは、学究的・教育的に重要と考えたから」

 ドイツで子育てをしてきた日本人たちは、異口同音にドイツの戦後教育の徹底ぶりを語る。この映画上映会後に開かれたドイツの大学での話し合いは、それを検証する絶好の機会だった。

 「私のギムナジウム(日本の中学・高校に相当)では、合計3回位、それぞれ2カ月間に渡って、戦争においてドイツの犯した過ちを研究する機会がありました。図書館やネットで調べたり、体験者たちを対象にした聞き取りやアンケートをして、それを他の生徒の前で発表するんです」

 「僕は、小学校の最終学年の宗教・道徳の授業でやったのが最初でした。もちろん、その前にも家族やボーイスカウトなどで、ナチスとか、ホロコーストとかについて、読んだり聞いたり話したりする機会がたくさんありました」

 「ドイツでは国営テレビが今でも、繰り返し、ドイツがどのようにして全体主義、軍国主義に向かってしまったのか、第2次世界大戦中にドイツは何をしてしまったのかを厳しく問うドキュメンタリーを作っては放映しています。それを家族で見て話しながら育つから、小学校高学年くらいからは、そういうテーマが出てきても、下地ができているのでしょう」

 日本の大学で6年間「ジェンダー論」を教えていたという女性は、映画「主戦場」を次のように高く評価する。

 「ドイツの中高では、ほとんど全ての教科で、必ずドイツが犯した過ちがテーマになるのです。国語(ドイツ語)でも、宗教や道徳でも、地理や歴史はもちろん、ガス室での大量殺害や人体実験も行われたので、化学や生物の授業でも。そうすることで、それぞれが関連しあっていることがわかるようになり、被害者の目線でとらえることができるようになるのです。これが、戦争についての教育に関する日本とドイツの根本的な違いだと思います。日本の学生に向かって、慰安婦の話をしようとしたのですが、何も習っていないというので、私は驚きました。教育からかき消されている今、この映画が議論を喚起したことは素晴らしい」

▼批判的視点

 今回の上映会とデザキ監督とのトークイベントは、デュッセルドルフ大学で学ぶ9人の学生たちの招請で実現したものだ。彼らは、日本学(地域研究)や歴史、政治、比較文化研究などを専門とする自主的な学際研究グループで、上映会の翌日にシンポジウム「私たちは恐れずに問う!」を開催。学生たちが自ら定めた研究テーマは「記号論から見る慰安婦像」、「ポストコロニアル視点からの慰安婦問題」「絶対的真理か、巧みなうそか」「櫻井よしこ―日本における歴史修正主義」など、20代前半の彼らからは想像できない専門的で学問レベルも高いものだった。

 グループのリーダーは笑顔があどけないキャロリンと、唯一の男子学生であるセバスチャン。シンポジウムを予定していた昨年暮れ、この映画の公開を知った。すぐさま、招請を計画したものの、デュイスブルク大学への働きかけや資金の捻出など、実現までには、結構苦労したのだという。

 「日本もドイツと同じ敗戦国だから、同じように批判的視点からの分析を徹底的に教えられていると思っていた」。そう語ったおかっぱ髪のジョアナは「批判的な視点から歴史を学べば、歴史修正主義者が口にする根拠に乏しいウソは、すぐに見抜けるはず」と指摘する。

 日本が大好きだというジョアナ。彼女が慰安婦問題に興味を抱いたのは、韓国系ドイツ人の友人に日本におけるマイノリティーの話を聞いたことだったという。

 その友人と一緒に、日本人留学生を含む研究グループを立ち上げ。大阪大学とミュンヘン大学でそれぞれ学生100人以上に、アンケートと聞き取り調査をした。「驚いたことに、日本人学生は、第2次世界大戦と日本についての質問に、ほとんど『知らない』と答えた。大学受験では世界史を選択する方が有利だから、日本の歴史、特に近代史については学ぶ機会がないと。自分の国の歴史を批判的に学ばなくては、国はだめになってしまうと思う」。そう口にする彼女の表情は何とも暗かった。

シンポジウムの様子。集まった学生たちの現代日本に対する造詣は驚くほど深い(C)Taz

▼誇りとは 愛国心とは

 「過ちを認めた上で、謝罪し、どうしたら二度と同じ過ちを繰り返さないか考えて実行する。これができるドイツ人を、私はとても誇りに思っています」。

 ある女子学生が決然と言い放った言葉を耳にして、こんなことを考えた。

 過去の非を認めることは恥なのだろうか? 名誉が傷つくのだろうか?

 この疑問に対するデザキ監督の答えは明快だ。

 「日本の右派は、それを国や日本人の名折れと感じるかのようだ。傷つけられた名誉を回復するために、教科書から削除し、集団的記憶から消し去ろうとしている。日本を愛し、よりよくしたいという意味では左派も同じ。左派は、過去の過ちを認めた上で、そうしようとしている。どちらも、日本が大好きで、とても愛国的なんですよ」。

 自分と国を同一視するようなその感覚は、アメリカや欧州とは随分と異なるようだ。特に、「過去に自国がしてきたこと」と「今の自分」とを同一視して、それを批判されたからといって侮辱と感じて反発したりすることはありえない。自分とは別の人々が動かす国や政府や軍隊が行ったことに対し、責任の一片を引き受けることはあっても、名誉を傷つけられたとは認識しないからだ。

 「SEALDsは若者の運動のように思えても、デモの中心は60代以上の人だった。今度の参議院選挙でも、若者の投票率は極端に低い。今日の日本のあり方に多少は批判的な老人世代がいなくなった10年後の日本はいったいどうなってしまうのだろう。」卒論では、安全保障関連法に反対し、16年に解散した若者グループ「SEALDs(シールズ)」を取り上げ、修士論文では「日本会議」を研究しようとしているルーカスは、深いため息とともにこんな言葉を吐き出した。

 ヒロシマやナガサキの追悼イベントがドイツはもちろんのこと、世界中で行われていることをご存じだろうか。それは、どこかの国やその国民を糾弾するためでも、侮辱するためでもない。人類の責務として史実を認め、記憶に留め、同じ過ちを繰り返さないよう問い続けるために―。(ブリュッセル在住ジャーナリスト、佐々木田鶴=共同通信特約)

© 一般社団法人共同通信社