鶴 折り続け20年 「自分なりの形」で平和な世界祈る 被爆者の本多由利子さん  

児童たちに千羽鶴を手渡す本多さん(右)=長崎市、市立城山小

 20年間、折り鶴を作り続けている被爆者の女性がいる。長崎市城山町の本多由利子さん(82)。「みんな仲良く、平和な世の中であってほしい」。そんな願いを込めて、数え切れないほどの鶴を折ってきた。

 1945年8月9日。当時8歳の本多さんは爆心地から4.2キロの西彼福田村(当時)に疎開していた。昼食にしようと、しちりんでナスを焼いている時だった。突然強い風が吹き抜け、割れたガラスで3歳下の妹がけがをした。翌日、長崎市新戸町の自宅まで歩いて帰る途中、男女の見分けも付かないほど焼けただれた裸の遺体が海に浮かんでいるのを見た。

 折り鶴を作り始めたのは99年。夫を亡くして一人で暮らしていた本多さんの家に、長崎市立城山小に通う2人の孫娘が、放課後によく遊びにきていた。同年、城山小の被爆校舎が平和祈念館となった。学校の課題で鶴を折る孫を手伝ううちに、折り鶴作りが本多さんの日課になっていった。

 以来、ほぼ毎日折り鶴を作り続け、多い月で1万羽以上を折っている。折った鶴は千羽鶴に仕立て、その中に数羽「みんな仲良く」とメッセージを記した鶴を混ぜる。城山小のほか、近くの保育園や病院などに毎月届けることが楽しみだ。「みんなに喜んでもらいたい」という一心で、せっせと折り続けている。

 7月24日。千羽鶴を手に城山小に出向いた。「これも私の。あ、これも」。校内には本多さんが手掛けた千羽鶴が飾られている。

 本多さんが学童保育の子どもたちに千羽鶴を手渡すと、受け取った3年の神門みなみさん(9)は「カラフルできれい」と喜んだ。5年の松尾美空さん(10)は「戦争や核兵器のない明るい世界にしたい」と千羽鶴を見詰めた。

 本多さんはこれまで、被爆体験を人前で語ったことがない。「自分にはできる自信がない」と言う。もちろん、原爆でたくさんの人が命を奪われるようなことは二度とあってはならないと思う。「自分なりの形」で、皆が仲良く暮らせる平和な世界の実現を願い続けるつもりだ。

 折り鶴を作るきっかけになった孫娘に昨年、娘が生まれた。5年後にはおそらく城山小に入学することだろう。「ひ孫に見せたいから、その時までは折らないと」。本多さんは今日も鶴を折る。

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