【熊本城のいま】「惣構」伊達の城と共通

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伊達政宗と加藤清正の城について講演する須貝慎吾さん=熊本市中央区

 東北の大名である伊達政宗(1567~1637年)と、加藤清正(1562~1611年)の城造りには、「惣構[そうがまえ]」という共通点があった。仙台市文化財課から熊本市の熊本城調査研究センターに派遣されている須貝慎吾さん(25)が、7月下旬に同市で開かれた講演で指摘した。

 政宗と清正は同世代の武将。いずれも戦国から近世期を生き、仙台城と熊本城という近世城郭を築いた国持[くにもち]大名だ。

 政宗は1584年に家督を継ぐと、89年に有力大名の蘆名[あしな]氏を滅ぼし、南奥羽(現在の宮城県や福島県、山形県南部など)を支配した。

 須貝さんによると、伊達氏の居城は、室町時代に築かれた土塁だけの米沢城(山形県米沢市)だった。しかし、政宗が南奥羽を手にしたことで支配領域が2倍以上に広がり、米沢城では手狭になった。そこで政宗は、米沢市に舘山[たてやま]城を築く。

 東北の有力大名として頭角を現しつつあった政宗にとって、国づくりの基盤となる重要な城だ。政宗直筆の日記「伊達天正日記」によると、政宗はこの城で惣構を伴う城下町の整備を試みている。

 惣構とは、土塁や掘で造られた城の防衛線。惣構で囲まれた区域=城下には家臣や領民が集住し、その結果、家臣らの結束が高まるとともに、商業の集積による経済振興が図られたという。大坂城などでよく知られる。

 ほぼ同時期の1591年、3年前に肥後国の北半分を拝領した清正は、現在の第一高(熊本市中央区)周辺にあった隈本城で、塀の普請を家臣に指示している(『高林兵衛文書』)。

 塀の工事は惣構に伴うものだ。熊本城調査研究センターの鶴嶋俊彦さん(64)は「清正は秀吉の家臣として各地の城を見ており、知識は豊富だったはず。惣構は領内の生命財産を守ることにつながる。国づくりへの意識が高かったのではないか」と推察する。

 須貝さんは「東北、九州と場所は離れているものの、政宗も清正も戦乱の時代の大名として国づくりを進め、家臣や領民をまとめるために惣構を手掛けたのだろう」と語った。

 ちなみに、政宗は細川家ともつながりがあった。須貝さんによると、政宗は仙台城で酒を作らせるほどの酒好きで、飲むと家臣を枕にして寝たり、能の最中に役者に飲酒を強要したりと「酒狂い」の一面があったという。細川忠興・忠利の往復書簡から当時の政治史を描く「江戸城の宮廷政治」(山本博文著)には、政宗と親交があった忠興が「さては狐[きつね]でも憑[つ]いたか」と心配する様子が書かれている。(飛松佐和子)

(2019年8月9日付 熊本日日新聞朝刊掲載)