岸本昴一の親戚が日本から=当地親族、新潟県人会長と交流

左から岸本節子さん、介護人と耐子さん、智也さん

 「岸本昴一さんの写真は今も実家に飾られています。祖母から昴一さんのことは度々聞かされてきました。ご縁があって、地球の反対側に住む親戚の方々にお会いできて本当にうれしいです」―新潟県新発田市に住む映像エンジニアの岸本智也さん(38)は、ブラジル新潟県人会第3代会長だった岸本昴一さんの実弟の曾孫にあたる。
 長男だった昴一さんがブラジルに移住したため、弟が10代目として実家を継ぎ、そこから数えて3代目の家長が智也さんだ。
 7日午前、聖市のジャパン・ハウスで岸本昴一さんの末娘の耐子さん(たいこ、79、二世)と、次男の妻・節子さん(78、二世)と待ち合わせ歓談した。耐子さんは39年前、訪日していた時、智也さんの両親の結婚式に出席していた。「父が卒業した新発田農業高校を見に行ったりした。懐かしいわ」と耐子さん。その翌年に智也さんが生まれ、その後も3度ほど、新発田から親戚が来伯訪問したという。ただし、智也さん自身がブラジルの親戚に面会するのは今回が初めて。
 岸本昴一さんの件は、本紙でも連載《終戦70年記念=『南米の戦野に孤立して』=表現の自由と戦中のトラウマ》(https://bit.ly/2GXyGyF)として詳しく報じた。あの筆名・岸本丘陽だ。
 1932年に聖市ピニェイロス区に暁星学園を設立。日本語教育だけでなく、勤労部や裁縫部も兼ね備え、勤労精神を養うことで社会に貢献できる人材を育成するなど、日系社会の子弟教育に大きな貢献をしてきた。
 日系最大の教育施設「コレジオ・ファクルダーデ・ブラジリア」の創立者・坂本久場綾子さん、70年代に「ラミー王」と言われた故市村之さんの三男の順二さんや四男・勝彦さん、大学教授、政治家ら多彩な人材が巣立っていった。その同窓会は現在でも続けられている。
 岸本昴一さんは雑誌『曠野の星』を創刊し、自ら取材活動を行い105号まで発刊。10冊前後の著書もあり、ジャーナリスト、言論人としても活躍した人物だ。
 智也さんはエンジニアとしてジャパン・ハウスの展示設営をしに初来伯。仕事が一段落したところで、会うことになった。今後、情報交換ができるように、3人はお互いの携帯電話の番号を交換していた。
 智也さんは「いつか新発田で岸本昴一さんの活動を紹介するような企画もやってみたい」との抱負を語った。その後、新潟県人会の駒形秀雄会長と昼食を共にし、故郷談議に花を咲かせ、同県人会館の入り口に飾られている歴代会長の顔写真額にある岸本昴一さんを見に、東洋街へ向かった。

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