「戦争は殺し合い。絶対あかん」両親と面会の記憶、今も涙

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戦争体験を振り返る河田数馬さん=神戸市垂水区

 神戸市垂水区の河田数馬さん(96)が戦争体験を振り返る口調は、終始淡々としている。乗っていた巡洋艦が沈み、洋上に投げ出されたこと。南方で赤痢にかかり、死線をさまよったこと。全く当たらない高射砲でB29を狙ったこと。ただ一つだけ、声を詰まらせる場面がある。療養中の病院で、両親と面会したときの記憶だ。(小川 晶)

 1923(大正12)年3月、瀬戸内海に浮かぶ岡山県笠岡市の北木島で、4人きょうだいの長男として生まれた。家計は苦しく、高等小学校を中退して石材の運搬船で働いた。

 41(昭和16)年、村から海軍の志願兵を出すことになり、河田さんに声が掛かった。試験に合格し、翌42年、19歳で広島の大竹海兵団へ入団。新兵として巡洋艦「衣笠」に乗り、激戦地ガダルカナル島を巡る第3次ソロモン海戦に参加した。

 連合軍の攻撃を受けて傾く衣笠。血でぬめる甲板を四つんばいで移動するその脇を、同僚の手足が流れていく。「仲間が死んでも、特に何も感じん。死ぬのは順番思うとったから、『次はおれやなあ』ぐらいのもんや」。退避命令が出て船首から飛び込むと、4時間ほどさまよって救助され、内地に戻った。

 横須賀の砲術学校で訓練を積むと、44年10月に特務艦への配置に伴いフィリピン・マニラへ。はびこっていた赤痢にかかり、食べても飲んでも下痢が続く。そのうち、血だけを垂れ流すようになった。

 周りの兵士が「お母さん、お母さーん」とうわ言を繰り返して亡くなっていった。河田さんは命を拾ったが、衰弱が激しく、内地に戻されて入院した。

   

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 「別府海軍病院に帰ってきています」。体に力が入らず、1時間かけて実家にはがきを書いた。受け取った両親は、すぐに駆け付けてくれた。

 3人部屋のドアが開く。母マスさんが入ってきた。ベッドに横たわる河田さんと目が合ったが、そのまま通り過ぎ、他の2人の顔をのぞき込んでいる。

 声が出せない河田さんをよそに、マスさんが「数馬がいない」と取り乱す。遅れて病室に入ってきた父、綱五郎さんが、じっと見つめてきた。息子と気付いたのか、黙ったまま河田さんを指すと、マスさんは「わーっ」と泣き叫んだ。

 「おふくろが分からんほど、おれはやせこけてもうたのか。浮かれて『立派に戦死する』なんて思うて、おれは何しとったんや」。体は動かないのに、涙が止まらなかった。

   

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 45年1月、回復した河田さんは、岡山・倉敷の航空隊基地で防空任務に付いた。空爆に来るB29を高射砲で狙うが、全く当たらず、すぐに部隊は解散。異動先の香川・観音寺基地で終戦を迎えた。

 戦後は、山口県での炭鉱勤務を経て神戸に移り、港で働いた。大病もせず、気が付けば96歳。「長生きしすぎて困っとるんやが、そう思えるだけ恵まれとるんじゃろうなあ」と笑う。

 今でも、息子たちに戦争体験を語ることがある。懐かしむように記憶をたどっていく中で、両親との面会の場面になると、声が震えだし、涙があふれてくる。

 「戦争は殺し合いじゃけえのう。傷ついた本人だけやなく、家族まで悲しむんやからのう。とにかく、絶対にしたらあかんわなあ」