小値賀島 終戦前日に交戦 当時国民学校2年・﨑山信好さん 戦死した日本兵、今も胸に

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日本軍と米軍が交戦した現場で当時を振り返る崎山さん=小値賀町

 太平洋戦争が終わろうとしていた1945年8月14日。五島列島北部の小さな島で、日本軍と米軍が交戦したことは、あまり知られていない。小値賀島の唐見崎地区。昨年秋、米軍機の機銃掃射の弾丸とみられる金属片が防風林の枝の内部から見つかった。当時国民学校2年だった﨑山信好さん(82)は、命を落とした2人の日本兵のことを胸に刻み、平和を願い続けている。
 唐見崎地区は島の東部にあり、現在は21世帯37人が暮らす。﨑山さんによると、戦時中、ラジオや新聞がある家庭はほとんどなく、戦況は学校で教師から聞かされた。「日本軍の活躍を伝える華々しい話ばかり。農漁業で自給自足をしていたおかげで食料事情は良かった」と振り返る。
 44年夏ごろから同地区に日本兵数十人が駐留。うち幹部とみられる3人が﨑山さんの自宅で寝起きするようになった。元海軍兵だった﨑山さんの父親を頼ってきたとみられ、近くの海辺にテントを張っていた若い兵が食事を届けていた。
 兵から事情を聴いた父親によると、任務は近くの前方湾に浮かべた木造の模型船2隻で米軍機を誘い、地上から攻撃することだったという。ただ、兵士たちは子どもたちに慕われ住民とも打ち解けており、「戦時下という緊迫感はあまりなかった」。
 45年8月14日。夏休み中の﨑山さんが友人と自宅周辺の海で泳いでいると、米軍機2機が上空に現れた。近くにいた日本兵が「上がれ」と叫び、﨑山さんたちは急いで防空壕(ごう)に駆け込んだ。「恐ろしくて耳をふさいでいたが、バラバラと米軍の機銃掃射の音が聞こえた。戦闘は1時間近く続いたように思う」と話す。
 大分県在住の戦史研究家、深尾裕之さん(48)が米国立公文書館所蔵の文書などを基にまとめた調査報告書「終戦の五島を記録する~五島の海軍施設と米軍の来攻~」(五島文化協会発行)によると、米陸軍の戦闘機4機が唐見崎地区に飛来し、日本軍が発砲。米軍機は日本軍に機銃掃射を浴びせ、模型船1隻が焼失、軍人2人が戦死、住民は避難して無事だったとしている。
 戦闘の音がやみ、﨑山さんは恐る恐る壕を出て自宅に帰った。離れには負傷した日本兵数人が寝かせられ、その中には親しかった若い兵士もいた。「のぶちゃん、水をくれ」と頼まれ、ひしゃくの水を渡そうとしたが、救護兵に止められた。若い兵士は「天皇陛下万歳」と叫び、息を引き取った。
 﨑山さんの自宅で寝起きしていた兵士の1人も海岸で腹部に重傷を負ったと聞き、母と向かった。海岸に横たえられ、「首をはねてくれ」と叫んでいた。その後、亡くなったと聞かされた。
 北松小値賀町教委によると、この戦闘の記録は郷土誌などに残っていない。町教委が同地区などを国の重要文化的景観に申請するため、2011年夏、住民に聞き取りをした際、話が出たという。
 﨑山さんは「水をほしいと言った兵士が、私を見つめた何ともいえない表情を、今でもふと思い出す。制止されても水を渡せばよかったという後悔もある」と話す。そして「勝てる見込みがない、大国相手の戦争をしたのかなと、今になって思う」と静かに続けた。