戦争のむなしさ後世へ 高岡の中谷さん・樋爪さん 叔父の日記保管

正雄さんが残した日記や当時の写真を手に、正雄さんへの思いを語る洋子さん(左)と和夫さん=高岡市内の洋子さん宅

■海軍志願し23歳で戦死

 太平洋戦争で戦死した海軍志願兵が学生時代に書いた日記が、高岡市の親戚宅に残されている。何気ない学生生活の日々とともに、志願を決意するまでの思いがつづられている。日記を大切に保管しているのは、めいの中谷洋子さん(76)=高岡市あわら町=と、おいの樋爪和夫さん(73)=同市伏木本町=のきょうだい。2人は「若者が自ら戦争に向かい、死んでいったむなしさを語り継いでいかなければならない」と語る。(社会部・村田美七海)

 2人の叔父、故樋爪正雄さんは1921年、高岡市で生まれた。伏木商業学校(現伏木高校)を卒業し、海軍工機学校に入学。志願兵として海軍に入った。

 重巡洋艦「利根」に乗り、真珠湾攻撃やミッドウェー海戦に参加。44年1月に結婚したが、半年後、南シナ海で戦死したとの一報が家族に届いた。23歳だった。

 遺品は、正雄さんの兄で、93年に亡くなった2人の父、久二さんが革製のかばんに入れ、保管していた。和夫さんが数年前に実家の蔵を整理した際、日記や教科書、受験勉強に使ったノートなどを見つけた。

 37年の伏木商業学校時代の日記には、水泳部で優勝を目指して寒稽古に励む様子や、「授業がつまらん」と書いた日記を提出し、先生に「言葉があらい、気をつけよ」と注意されたことなど、今の学生と変わらない日常がつづられている。

 一方、海軍への志願を悩み、先生に相談する記述もある。「父親に海軍を志願せよと言われたが、自分は行きたいと思わない」「海軍志願、鉄道省志願、ああ、どうしよう」。その後、「海軍志願する覚悟です」と力強い字で記すと、先生から「よいことです」とたたえる言葉が返されている。

 洋子さんは43年、和夫さんは46年生まれで、叔父の記憶はないが、洋子さんは「戦後、残された家族がふさぎ込んでいたことを覚えている」と言う。和夫さんは「どんな教育を受け、叔父が戦争に突き進んでいったのか調べなければならない」と考えている。「若者が戦争で死んでいった事実が、時代とともに忘れ去られるのはよくない」

 2人は2008年に台湾を訪れ、叔父が戦死した南シナ海に向かって流れる川のほとりで線香をたき、鎮魂を祈った。「戦争が終わっても残された人は傷を負って生きていくことになる。二度とこんな思いをする人をつくってはいけない」。洋子さんは力を込めた。

© 株式会社北日本新聞社