『いるいないみらい』窪美澄著 金木犀の輪郭みたい

 子供を産むことについて、考えるのを先延ばしにしてきた。自分の血を分けた子供を産み育てるって、想像がつかないのだ。未知が過ぎて、怖い、という感覚に似ているかもしれない。そうしているうちに刻一刻と出産のタイムリミットは迫ってきており、「この人の子供を産みたい」的な、迸る素敵なサムシングは特になく、現在に至る。

 そんなときに何気なく手にした本書。5つの物語から構成される短編集は、それぞれの家族のかたちを模索する人々の物語だ。

 夫と二人の暮らしに満足していた知佳(35歳)。しかし妹夫婦に生まれた子供に対面して以来、夫が心ここに在らずとなってしまった(「1DKとメロンパン」)。子供嫌いの独身OL・茂斗子(36歳)は、ある日単身者しか住んでいないはずのマンションで、子供の泣き声を耳にする(「私は子どもが大嫌い」)。そして、生後3ヶ月で亡くなった娘の面影を、20年以上経った今でも探してしまう独身男性(54歳)の物語(「ほおずきを鳴らす」)……。

 印象深いエピソードは多々あったが、中でもとりわけ心に残っているのが、「金木犀のベランダ」に登場するふたつのシーンである。

 夫と共にパン屋を営む女性が主人公の物語なのだが、ひとつはパン屋の常連客、節子が主人公・繭子に向けた言葉だ。「私はあなたのことを娘みたいに思うし、あなたのご主人を息子みたいに思うこともある。私は家族もいない独居老人だけど、この商店街の人たちを家族みたいに思ってる。ずっと欲しかったものがふいに手に入ったような気がする」。

 そしてもうひとつは物語の終盤、どこかの家の庭先に咲く金木犀の香りを嗅いだ繭子の心情だ。生まれてすぐに乳児院の前に捨てられ、18歳までその施設で育った繭子は、金木犀を見てこんなことを考える。

 「近くに寄って見た。こんな花だったのか、と思った。小さな花が集まって房のようになっている。そのとき、ふと思い出したのは、自分が育った施設の仲間のことだった。こんな風に肩を寄せ合って、私たちは生きていた。」

 家族の不在に、孤独を持ち寄っていたあの頃の繭子たち。一方で商店街のみんなが家族だと言う節子さん。金木犀は、あまりのかぐわしさに、木そのものの何倍もの大きさ、その香りが届く場所までが花のように思うことがある。それは、家族という線引きの曖昧さ、自由さを表しているような気がした。節子さんが八百屋のおっさんもクリーニング屋のお姉さんも、そして繭子たちのことも家族だと思っているように、家族の輪はもっともっと広げられる。金木犀の輪郭のように。入籍だとか血を分けただとか、それだけが家族ではない、もっと自由で、心の在り方ひとつで、人は家族をつくれるし、孤独ではなくなる。そんなことを言われているような気がした。

 美しいだけじゃない感情も描いているはずなのに、歯車が噛み合わなくなる瞬間も、衝突も、ボタンの掛け違えも、薄いカーテンの向こう側で起きている出来事のような印象を受ける。それは作者である窪の、デリカシーや、他者との距離の取り方の表れなのかもしれない。カーテンの向こうからは光がたっぷり差し込んできていて、現実が、美しく見える。私たちの住む世界は柔らかく輝いているような、そんな気さえしてくる一冊だった。

(KADOKAWA 1400円+税)=アリー・マントワネット

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