茅ヶ崎に焼夷弾が降った夜 山口さん「あと30cmで死んでいた」

茅ヶ崎市

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平塚海軍火薬廠の惨状。茅ヶ崎市も同様の状態だったという(所蔵米国国立公文書館/提供茅ヶ崎市)

 終戦から74年。1945(昭和20)年7月16日夜から17日未明にかけてB29米軍爆撃機133機が飛来した平塚空襲は、茅ヶ崎市内にも焼夷弾を落とし、被害をもたらした。当時11歳で空襲を経験した山口次縕さん(85)=柳島在住=に話を聞いた。

 「ザーンザーンという異様な音がして、外は照明弾で真昼のような明るさ。祖父と母は家の守りとして残り、祖母と私、弟2人は逃げ惑った」

 山口さんは、当時の高座郡茅ヶ崎町柳島に生まれた。小学4年生の時、父が中国に出征。子どもながら「長男として家族を助けなければ」と密かに胸に誓った。

 それから2年後の7月16日、ラジオから「B29らしき編隊十数機が相模湾上空で北上中なり」の声が響いた。灯火管制で薄暗い部屋の中、「今夜はいつもと違う」と感じた母が兄弟を起こして家を飛び出すと、炎が夜空を赤々と焦がしていた。

 逃げる先々に焼夷弾が落ちてくる。山口さんは湘東橋(現・宮の下公園付近)の土手で、弟と頭から掛布団を被って避難をしていたが、突如、布団が地面にめり込んだ。「あと30cmでもずれていたら死んでいた」。無残に引きちぎられた布団の間で、焼夷弾が火花を吹いていた。

 夜が明けると柳島の八幡宮の全焼や田畑に空いた巨大な穴、橋に突き刺さった焼夷弾など凄惨な現場があらわとなった。「灯火管制もバケツリレーも竹槍も、なす術がなかったな」

 この空襲で茅ヶ崎は、柳島や中島など南側地域を中心に554世帯1285人が被害を受けた。182戸の焼失、死者10人、重傷者12人だった。

 1カ月後の8月15日。山口さんは近所宅のラジオで玉音放送を聞いた。放送直後、空を見上げると一機のB29が青々とした上空を相模湾から北に向かって飛んでいくのを見て、終戦を実感した。山口さんは、「むなしい戦争だった。あの時代の閉塞感は何とも言葉にしづらいね」と話した。
 

山口次縕さん