【MLB】ディマジオ、ウィリアムス…戦争でキャリアに影響を受けたメジャーリーガーたち

ヤンキースでプレーしたジョー・ディマジオ【写真:Getty Images】

56試合連続安打のディマジオや4割打者ウィリアムスら多くの選手が戦地へ

 日本野球界は73人の職業野球選手が戦没するなど、第2次世界大戦で多くの人命を失った。一方、日本と戦ったアメリカの野球界も大きな痛手を受けた。

 戦争の影響を最も受けた野球殿堂入り選手は、ジョー・ディマジオとテッド・ウィリアムスだ。

 1936年にヤンキースでデビューしたディマジオは、1934年までプレーしたベーブ・ルースの後継者として、ルー・ゲーリッグとともに中軸を担った。強打と俊敏で優雅な外野守備から「ヤンキー・クリッパー(快速船)」の異名を取った。

 1941年には56試合連続安打のアンタッチャブルなメジャー記録を作った。しかし、この年の12月8日に日本とアメリカが戦争を始めると、翌1942年オフに陸軍に入隊。戦地には赴かなかったが、3年間、兵役につき、プレーから遠ざかった。46年に復員後もヤンキースのスターとして活躍したが、かかとの故障に苦しみ、51年に36歳で引退した。

 戦前は9年間で219本塁打、打率.339。戦後は7年間で142本塁打、打率.304だった。ディマジオは引退後に女優マリリン・モンローと結婚。新婚旅行で日本を訪れ、戦後復興期のプロ野球選手を指導している。

 テッド・ウィリアムスはレッドソックスの主砲。1939年にメジャーデビューして、いきなり打点王。3年目の41年には打率.406をマークし、最後の4割打者になる。42年には3冠王に輝いたが、このオフに海軍に入隊した。

 ウィリアムスは母の世話をするため兵役猶予になっていたが、地元ボストンのメディアが「兵役逃れ」を非難。ファンからも嫌がらせを受けたために兵役猶予を自ら返上した。ウィリアムスも戦地には行かなかったが、3年間従軍した。

 46年に復帰後は大活躍したが、1952~53年には朝鮮戦争に従軍。「史上最高の打者」と言われ、41歳で打率.316を記録したが、通算安打数は2654本にとどまっている。全盛期の数年を軍隊で過ごしていなければ、3000本安打は確実だったと思われる。

第2次世界大戦で命を落としたメジャーリーガーは2人

 また、戦後に黒人メジャーリーガーとして大活躍するジャッキー・ロビンソンもカリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)在学中に兵役に就き、幹部候補生として少尉に任官している。

 ルー・ブリッシーは、大学屈指の左腕投手として注目され、アスレチックス入団が決まっていた。しかし、戦争の激化から陸軍に志願し、ヨーロッパに送られる。イタリア戦線でドイツ軍の砲撃によって左足を負傷。一時は切断の恐れさえあったが大手術を経て復員した。戦後メジャーに復帰し、アスレチックス、インディアンスで44勝を挙げたが、負傷がなければ殿堂入りしていたのではと言われた。

 第2次世界大戦で命を落としたメジャーリーガーは2人とされる。フィラデルフィア・アスレチックスの捕手ハリー・オニールは1939年にメジャーで1試合に出場したが、1945年3月に硫黄島で戦死した。

 エルマー・ギデオンは同じく1939年にワシントン・セネタースで外野手として5試合に出場したが、空軍に入隊してパイロットになり、1944年4月20日にヨーロッパ戦線で撃墜されて戦死した。

 当時のフランクリン・ルーズベルト米大統領は「ルーズベルト・ゲーム」で知られる大の野球好きだったから、戦争が激しくなってもMLBの試合を中断させることはなかった。しかし、これら上記の選手以外にも多くのメジャーリーガーが戦地に赴いた。

 日米ともに、プロ野球は戦争によって大きな痛手を被っていたのだ。(広尾晃 / Koh Hiroo)

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