【高校野球】球児の夢を応援―“奇跡のバックホーム”が変えた運命 松山商OBの右翼手の今

96年夏の甲子園決勝で「奇跡のバックホーム」を演じた松山商OBで愛媛朝日テレビの矢野勝嗣さん【写真:編集部】

愛媛朝日テレビ、営業局営業部副部長の矢野勝嗣さん【第1回・仕事編】

 甲子園に出場したことで、“将来の仕事”を明確にする球児もいる。1996年夏の甲子園、松山商(愛媛)-熊本工(熊本)の決勝戦。“奇跡のバックホーム”で高校野球史に残るプレーをした矢野勝嗣さんもその1人。松山大を経て、地元の愛媛朝日テレビに入社。現在、営業部営業職の副部長を務めている。

 松山市内にあるテレビ局を訪ねた。ロビーにあった大型テレビでは、坊っちゃんスタジアムで行われている愛媛大会の試合中継が流れていた。開会式とメイン球場での全試合、愛媛朝日テレビが生中継している。球児の汗と涙の戦いが映し出されると、県内の野球ファンは夏の到来を感じる。

 奇跡のバックホーム――名勝負となった96年夏の決勝戦。延長10回裏、松山商が迎えた1死満塁のサヨナラのピンチ。熊本工の3番・本多の打球はこの直前に右翼に入った矢野さんへの飛球となった。深い打球だったが、矢野さんは捕球後、本塁にダイレクト送球をし、タッチアップを阻止した。延長11回表に矢野さんの二塁打から3点を挙げ、6-3で優勝。20年以上経った今も、色あせないプレーだ。

 矢野さんは、取材を受けていた立場から、取材をする側になる夢を抱いた。高校野球に携わる仕事がしたいと思った。

「今は営業の部署にいるので、直接、球児との関わりはないですけど、高校野球を応援してくださるお客様やスポンサーの方にご協賛をいただいています。(愛媛は)野球熱のある土地柄と思っています。夏になると、『野球が始まるね』という会話にもなりますね」

 営業職以外にも高校野球中継や取材にも携わった時期もあった。経験をもとに、球児のストーリーを届けてきた。

 坊っちゃんスタジアムでの試合を引き当てると、テレビ中継される。県大会の抽選会は会場も注目のポイントになるという。当時の松山商はかつてメイン球場だった松山市営球場での試合が多く、中継もされていた。

「僕らの時も中継がありました。今は(番組制作という)裏方ではありますけど、高校野球の仕事に関われているので、夏が来ると自分の気持ちは高ぶりますし、球児には頑張ってほしいと思います」

奇跡のバックホームを知らない世代、子供たちは動画で地元の英雄のプレーを確認

 時は流れ、中継の映像のクオリティは高くなっている。設置するカメラの台数は増え、人手も必要となれば、製作費もかかる。例え、ニーズがあっても採算が合わなければ、コンテンツの提供はできなくなってしまう。取材スタッフも大事だが、営業マンの奮闘がなければ、夏の風物詩が県内のお茶の間に届かない。

 それを支えているのが、今の矢野さんの仕事でもあり、「いいものを作る」というプライドでもある。

 40歳になった矢野さんは2人の子供がいるパパでもある。休日は家族で過ごす他、母校の中学や、松山商の同級生が指導する少年野球チームに教えに行ったりしているという。父親になった年齢だからこそ、伝えたいこともある。今の子供たちは、球史に残る“奇跡のバックホーム”をリアルタイムでは知らない。だが、親の世代はほとんど知っている。指導に来た矢野さんが紹介されるとざわつくのはどちらかといえば、保護者の方だ。そんな甲子園Vメンバーから、アドバイスや背中を押されれば、子供たちだって嬉しいはず。矢野さんは野球への感謝を持ちながら、愛媛の子供たちのことを考えて、仕事をしていた。

「奇跡のバックホームの!と紹介されるんですが……そこはもう完全にネタで使われています(笑)。子供たちも知らないのですが、今はYOUTUBEで映像を1回は見てくれていたりしているみたいで……。子供たちの前でいきなり、偉そうなことは言えないので、野球をする上での気持ちの持ち方とか、監督、コーチの言う事をしっかり聞くんだよ、とか話をしています。野球を好きでいてほしい、と。激励という感じですかね」

 野球をする上での気持ちと監督の思い――。矢野さんは自身の野球人生を凝縮し、短い言葉に思いを込めた。あのバックホームが実現するまでには、「野球を辞める寸前だった」と振り返る大きな苦悩が高校時代にあったからだった。

(次回に続く)(楢崎豊 / Yutaka Narasaki)

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