東急百貨店東横店の思い出~のら散歩・渋谷編~

東急百貨店渋谷駅・東横店と空中ケーブルカー「ひばり号」

 来春、渋谷の「東急東横店」が閉館すると報じられた。

 激変する渋谷駅周辺。

 というわけで、渋谷を改めて覗いてみようと、のらのら歩いてみた。

 今さらながら、渋谷の変わりようには口があんぐり。

 ここに何があったかなんて思い出せないほど。

 遊び場だった渋谷は、いつしか通過するだけの街になっていた。

 ハチ公前に立ち、東急東横店を見上げてみる。

 私が最初にここを訪れたのは、一体いつなんだろう。

 ハチ公に聞いても、海外の観光客と写真を撮られるのに大忙しで返事はない。

 思えば、最初は「東横劇場」かもしれない。

 東横劇場は、東横店・西館の9階から10階にあり、昔は「東横ホール」と呼ばれた。1954年にできて、85年まで続いたという。

 ここでは、歌舞伎や落語、新劇などの公演も行われたが、下を走る電車がガタゴトとうるさかったらしい。

 なんたって、デパートの3階から銀座線は乗り入れているし、国鉄(現JR)も隣接。さらに玉電(現東急世田谷線)の路面電車も乗り入れていたのだから。

 私は東急東横店に来るたび、建物の構造が複雑で面白いと思っていた。

 駅に直結する「昭和のターミナルデパート」ならではの構造というべきか。

 今でも銀座線の渋谷駅で降りると、東急東横店の店内を通過しなければ、外に出られないのをお気づきだろうか。

 私はいつもこれにやられてばかりで、用もないのに伊東屋で文房具を覗いてみたり、鳩居堂でお香や季節のハガキ、催事場をうろちょろ。

 南館地下にある諸国名産コーナーに立ち寄り、週替わりの地方の銘菓を覗いて歩くのは一時期習慣になったほど。

 東横劇場に話を戻そう。

 私にとって東横劇場の思い出といえば木馬座。

 木馬座とは、影絵作家・藤城清治氏が1950年代に立ち上げた人形劇団。 

 私と同世代ならば、カエルの「ケロヨン」を思い出すかもしれない。

自動車好きなのはケロヨンの影響からかも

 私は、ケロヨンが大好きだった。

 まだ4歳くらいだったので記憶が曖昧だが、ケロヨンシャツに、ケロヨンバッグ。指にはケロヨンの指人形。全身ケロヨンまみれだった。

 お気に入りのレコードは、「怪物くん」とカップリングの4曲入りシングル盤。

 「くるくるかっぽん かっぽんぽん♪」(木馬座の歌)

 「朝から晩までプープープー 夢の中でもプープープー♪」(自動車マニアのケロヨンのうた)と「愉快、痛快、奇々怪々の怪物くん♪」(怪物くんのテーマ)

  こればかりが、頭の中にこだましていたあの頃。

 おそらく、あの当時、ケロヨン攻撃に遭っていたひとは多かったはず。 

 「木馬座アワー」という番組が始まると白黒テレビの前、かぶりつきで見ていた。

 ある事情があって、母と離れ離れにならなくてはいけない時期があり、とても寂しい思いをしたのかもしれない。

 それはよく覚えていないのだが、楽しいときも悲しいときも、小さなボーダーシャツから白いお腹をはみ出させて、真っ赤なケロヨン2000GTでやってくるケロヨンが私の傍にいてくれた。

  「ママにもパパにもいえないことを ケロちゃんにならおはなしできる こころのおともだち みんなのケロちゃん」(ケロヨンのうた)

 この歌にどれだけ励まされたことだったか。

 そんなある日「ケロヨンに会えるよ!」と言われて向かった先が「木馬座」公演中の東横劇場だったのだ。

 ところが、せっかく憧れのケロヨンに会えたというのに、嬉しいという感情が湧き上がらなかった。ケロヨンがあまりにも大きすぎたからだろうか?

 白黒テレビでしか見られなかった、目の前に広がる艶やかな色彩の世界観に驚愕してぼんやりしてしまったからか?

 これを最後に、ケロヨンとは「バハハーイ」してしまった私。

 東横劇場での「木馬座」の公演を思い出したのは、まだ東館があった2005年頃のこと。

 私は屋上遊園地へ向かうために、9階から10階への緩やかなカーブの階段を歩いていた。

 その赤い階段の冷たい石の手すりに触れた瞬間、木馬座の思い出がよみがえったのだった。

 そんな話をしながら東館屋上遊園地へ。

 遊具でのどかに遊んでいた夫も、東横劇場での思い出を語り始めた。

 85年、「ゲイツ・オブ・ヘル」という伝説のライブイベントを見たという。

 ソドム、非常階段、タコ(山崎春美率いるロックバンド)+町田町蔵(現・町田康)、泯比沙子など、80年代のアングラ系ミュージシャンが総出演したカオス的状況を興奮して振り返る夫。

 確かに彼らの過激なライブパフォーマンスを写真週刊誌などが話題にし、物議を醸し出したイベントであったことは間違いなかった。

 そういう過激なパフォーマンスがあるかと思えば、エルビス・コステロなど有名な外国人ミュージシャンの来日コンサートもやっていた。

 しかし、その東横劇場も85年で幕を閉じ、東急文化会館も消えていく。

 東急本店にできた文化村へ引き継がれるも、ターミナルデパート発の文化が散り散りになってゆくのだった。

ル・コルビュジエに師事したモダニズム建築家板倉準三氏による西館と南館

 そして東急東横店といえば、懐かしい「ひばり号」の存在も忘れてなるまい。

 昭和26年。当時の東館屋上から玉電ビル屋上(現在の西館)を結ぶ、子ども用のケーブルカーがあったというのだ。

 しかも1年半ほどで惜しまれつつも廃止となり、『東京のえくぼ』(1952年 松林宗恵監督)という白黒映画のみに動くその姿がアーカイブされている。

 そのことを教えてくれたのは、あの東横に襲来した『ガメラ3邪神〈イリス〉覚醒』(1999年 金子修介監督)で、ガメラの造形を手がけた原口智生監督だった。

 原口監督とは『ミカドロイド』(1991年)でご一緒させていただいてからのお付き合い。 

 10年ほど前、渋谷のバーで再会した原口監督に、自身のウクレレユニット・パイティティのPVを撮ってほしいと依頼したところ「洞口依子がウクレレって意外性が面白い」と快諾してくださった。

 なんとドキュメンタリー映画『ウクレレPAITITI THE MOVIE』(2010年)まで監督してくださったのだ。

 その際、原口監督から「ひばり号」の正体を得々と語り聞かされるのであった。

 原口監督の「ひばり号」への熱い思いが込められた、本編中にある『クロックワーク・ドールハウス』のPV。

 監督手作りの愛らしい「ひばり号」が、渋谷スクランブル交差点上空から東急文化会館の五島プラネタリウムに突進してゆく様子をぜひご覧あれ。

 私はこの空中ケーブルカー「ひばり号」が復活することを秘かに願う。

 そしていつかそれに乗って渋谷を眺めてみたいと思うのだ。

原口監督自らの手による可愛いミニチュア模型が魅力のPV

 「ひばり号」じゃないが、私はさらに、上空から東横店を覗いてみようと、渋谷セルリアンタワーホテル40階にあるタワーズ・バーへ。

 ふと振り返ってみる。

 私は、渋谷東急東横店を中心に、渋谷という谷間のるつぼで、いつも何か刺激的で珍しい文化やハプニングに触れていたような気がする。 

セルリアンタワーから眺める東急東横店と渋谷界隈

 渋谷東急東横店というターミナルデパート。

 地下の食料品街などは残るようだが、現在の西館と南館とも閉館する。

 東急文化会館はいつの間にかヒカリエに、東横線の乗り入れは地下になり、東横劇場やお好み食堂、Mr.マリックになる前のマリックさんが手品グッズを店頭販売していたおもちゃ売り場も、手品のように消えていった。

 大人から子どもまで大勢のお客さんで賑わった建物が役目を終える。

 渋谷川を塞いで暗きょとし、多くのひとびとを交差させ巨大ランドマークとなった東急東横店がいよいよ来春、86年の歴史に幕を下ろすのだ。

 その場所には、いつの間にか「渋谷スクランブルスクエアビル」が建ち、スカートの裾がひらりとひるがえるような曲線を見せつけている。

 そんな変わりゆく渋谷を空中ケーブルカー「ひばり号」に乗って眺めてみたい。

 これをきっかけに、私はまた歩きたくなった。

 懐かしい渋谷と新しい渋谷を感じながら、みなさんも歩いてみてはいかが?
(女優・洞口依子)

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