防空指揮所で勤務した大町光代さん(91) 飛び交う情報 緊張の日々 “秘密な場所”裏側語る

防空指揮所での経験を語る大町さん=長崎県佐世保市常盤町

 長崎県佐世保市内に暮らす大町光代さん(91)は、海上自衛隊佐世保地方総監部内の防空指揮所で終戦を迎えた。敵機の情報が飛び交い、緊張感のあった毎日。「あのころは『秘密』な場所で仕事をしていることが誇らしかった」。当時の生活をこう振り返った。
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 1943年秋。佐世保市立成徳高等女学校の3年生のときだった。海軍の要請を受け、指揮所に同年代の女子生徒約10人が集められた。親に勤め先を言うことも、日記を書くことも禁止された。
 佐世保鎮守府管区内からの情報を受ける役目だった。大町さんは、大村や鹿屋、博多などの航空基地を担当した。「敵機は編隊か」「敵の進行方向は」…。情報が錯綜(さくそう)しているときは、電話が鳴りやまなかった。正確さと速さが求められる現場で、常にプレッシャーを感じた。それでも国のために「御奉公」していることは誇りだった。
 45年6月28日から29日に起きた「佐世保空襲」のときは、非番で市内の自宅で就寝していた。空襲警報が聞こえ、あわてて指揮所に向かったが、指揮所付近の表構門で番兵に道をふさがれた。仕方なく待機していると、表構門前の兵舎が火柱を上げて燃えた。米軍機が低空で飛び、米兵の顔も見えた。「戦争は怖い」。恐怖と怒りが込み上げてきた。
 警報が解除されると、火の粉がくすぶる道を歩き、指揮所にたどり着いた。重い空気が立ち込めていて、女子生徒たちは黙って泣いていた。持ち場に着いたものの回線は切れており、仕事はできなかった。
 8月15日、「玉音放送」が指揮所で流れた。雑音がひどく、理解できなかった。しかし上司や無表情の兵士たちを見て、戦争が終わったことを悟った。「神風は味方してくれなかった」。言葉を失い、どん底に突き落とされた気分だった。
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 指揮所は、2016年に日本遺産に認定された「鎮守府」の構成資産となった。ツアーで一般公開されるようになり、これまで心にしまっていた記憶を語り始めた。「戦争はしてはいけない。指揮所を訪れる機会があれば、『戦争撲滅』を感じてほしい」
 終戦から74年がたった今、強く願っている。

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