昔住んでいたアパートの近くに、古いギョーザ屋があった。
店長“ジョーさん”の腰は、ほぼ直角に曲がっていた。目にかぶさるほどフサフサ生えた白い眉毛がチャームポイントだ。なぜジョーかというと、厨房の丸椅子に腰掛け居眠りをする姿が、漫画「あしたのジョー」のラストシーンそのものだからだ。
「バブルの頃は外まで行列が出来たヨ。何十人も並んでた」というのがちょっと自慢。
忙しくても暇でも寝起きでも、ジョーさんはいつも機嫌が良い。おしゃべりなほうではないが、手持ち無沙汰にしていると、「仕事、忙しい?」「こないだいいマッサージ屋さん見つけたヨ」「ほら腰がまっすぐになった」などと直角のままの腰でニコニコと話しかけてくる。
私が仕事でしくじり半べそをかいている姿も、恋人とのケンカの現場も、紹興酒を飲みすぎて撃沈している姿も、すべてジョーさんはフサフサの白眉毛の隙間から、充血気味の瞳であたたかく見守ってくれていた。
たまに「いいの取れたヨ」と言って、UFOキャッチャーの戦利品をくれた。ヘンテコなぬいぐるみキーホルダーでも、子どもあつかいされることに妙なうれしさがあった。
そんなジョーさんが店をたたむと言ったのは突然のことだった。
「うん、でも前から決めてたヨ。これから何するかまだ決めてない」
ジョーは、完全燃焼したのかもしれない。
落胆する常連客とは正反対に、本人だけがケロっとしていた。
間もなく店が閉まり、看板だけすげ替えた居抜きでオープンしたのは、焼き鳥屋だった。
熱心に仕込みをする店主を見て、ちょっと驚いた。どう見ても七十路後半だ。聞けば、長い間、老舗の焼き鳥屋の厨房で「ご奉公」。ついに念願かなって独立したと言う。
しかし、予想通り店はうまく回らない。なんせ接客は初めてらしく、お酒も料理も出てくるのに恐ろしく時間がかかる。それでも近所のよしみで気まぐれに足を運んでいたある日、視界の隅に何か懐かしい気配を感じた。客席に座っているのは、ジョーさんだ……!
「ヘッヘッヘ。ここ焼き鳥屋になったヨ。たまに食べに来るヨ」
コック服を着ていないジョーさんは若返って見えた。ジョーさんは、自分よりやや年少の新たな店主をアシストすべくさりげなく食器を下げたり、卓を拭くなど励んでいた。
「一度でいいから、ここでお客さんになってみたかった。夢がかなったヨ」とジョー。
ああ、そうか…。自分が長年営んでいた愛着あるお店。そのカウンターの外側から眺める景色はどんなだろう。
ジョーさんの素性を知らない店主は、「親切なお客さんがついてくれて幸運です。ありがたいです。私、頑張らないといけません」と感無量。
間もなくお酒が弱いジョーさんが、客席で居眠りを始めると、ひと仕事終えたらしい新店主もつられるように厨房でうたた寝を始めた。
ジョーは燃え尽きた。
と思ったら、「あしたのジョー」は、二人に増えていた。
(エッセイスト・さくらいよしえ)