フリッパーズ・ギターのデビューアルバムと渋谷系あれこれ 1989年 8月25日 フリッパーズ・ギターのデビューアルバム「three cheers for our side ~ 海へ行くつもりじゃなかった」がリリースされた日

渋谷系御三家と言えば、フリッパーズ・ギター、ピチカート・ファイブ、オリジナル・ラブ(異論は認める)。その他、音楽シーンを見渡せば、新御三家(郷ひろみ、西城秀樹、野口五郎)や、ロック御三家(Char、原田真二、世良公則)、はたまたインディーズ御三家(ラフィンノーズ、ウィラード、有頂天)等々、枚挙にいとまがない。そこで思うことがある。日本人は3という奇数に拠って立ちたがる… ということだ。

この仮定は是か非か… を問いたい訳ではなく、見方を変えて、渋谷系御三家のうち、どれが欠けたら渋谷系というカテゴリーは成立しなくなるだろうか? …を考えてみたいのだ。

この問いに対して導かれる答えはフリッパーズ・ギターだろう。

諸説あるが、渋谷系という言葉が初めて取り沙汰されたのは93年。そこに至るまでの各アーティストについて、相互関係を整理してみよう。

まず、小西康陽率いるピチカート・ファイブは細野晴臣のレーベル、ノン・スタンダードから85年にデビューしており、80年代ニューウェーブの残党とも呼べそうな雰囲気だった。

ピチカートが渋谷系と称されるのは、3代目ボーカリスト野宮真貴の頃というイメージが強いと思う。しかし、2代目ボーカリストはオリジナル・ラブの田島貴男であり、既に小西と田島は87年の時点で出会っていたのだ。

さらに、フリッパーズ解散後の小山田圭吾プロデュースを経て、晴れてピチカートもブレイク、渋谷系の仲間入りを果たす訳だが、当時の小西は悪びれもせず、「もう一人プロデューサー候補がいて、それは小沢健二であり、正直どちらでもよかった」と述べている。

そして、和光文化と呼ばれた和光大学を中心としたコミュニティにおいて小山田圭吾は、田島貴男のファンだった。その田島の弁によれば、フリッパーズ・ギターのブレイクは「フォロワーが先に世に出てしまった」状態だったという。

ちなみに、田島貴男自身は自分の音楽をカテゴライズされるのを嫌い、渋谷公会堂のステージ上で「俺は渋谷系じゃねえ!」と叫ぶ、元パンクスであった。

そのような経緯を経た上で、フリッパーズ・ギターはオリジナル・ラブがいなければ生まれなかったバンドとも言えるが、フリッパーズがブレイクし、解散後、コーネリアスとオザケンが派生し、渋谷系が生まれたからこそ、ピチカートやオリ・ラブも渋谷系にカテゴライズされる結果となった。

渋谷系のアンセムとされる「今夜はブギー・バック」(小沢健二 featuring スチャダラパー)のスマッシュヒットも手伝って、お茶の間に浸透したのが94年。

渋谷系の世界観をビジュアル面で構築したのがアートディレクター信藤三雄氏を中心としたコンテムポラリー・プロダクションだったなら、その筆力でスチャダラパーをブレイクに至らせ、渋谷系のネクストレヴェルとしてのクレイジーケンバンドが世に出るまで見守った渋谷系御用達のライターは川勝正幸氏という事になるだろう。

ちなみに、クレイジーケンこと横山剣は、フリッパーズの前進に当たるバンド、ロリポップ・ソニックと同じ事務所に所属しており、当時の小山田圭吾を車で送迎した過去もあるらしい。

一時はアシッドジャズやブリットポップ等、洋楽ともリンクする音楽性から、世界同時多発的というキャッチコピーで持て囃され、世界中のマニアックな音楽好きの “ゆる~い連帯” によって興隆した渋谷系だが、やがて終焉の時を迎える。

川勝氏が渋谷系イズデッドと申告したのは96年の事。

その前年、川勝氏と同い年のコラムニスト、泉麻人氏が書いた記事にあった「95年を75年の邦楽シーンになぞらえたなら、キャラメル・ママ ~ ティン・パン・アレーの役回りを担っているのは東京スカパラダイスオーケストラだろうか」という解釈には感銘を覚えたものだ。

かつて、はっぴいえんどを中心に日本語のロックが創生された歴史を追体験するような思いで渋谷系のムーブメントを眺めていた自分がそこに居る。

カタリベ: キンキーとキラーズ

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