スイスでプレーする若武者!?飯野の挑戦に迫った

今回は元ブリオベッカ浦安でプレー経験があり、現在はプロサッカー選手を目指し、スイスでプレーする飯野多希留(いいの・たける)選手にインタビューさせて頂きました!

サッカー経歴

・豊南SC

・ブリオベッカ浦安ジュニアユース

・ブリオベッカ浦安ユース

・ブリオベッカ浦安

・中央大学サッカー部

・SG Eintracht Mendig/Bell(ドイツ)

・FC Bassersdorf(スイス)

ドイツ挑戦を決意した日

僕がブリオベッカ浦安のユースチームに所属していた時に、このクラブのとあるOBがドイツでサッカー関係の仕事をしていて、1860MünchenのU-19の監督を僕らの練習に招待してくれて、彼が僕らの練習を観てくれました。その時の練習メニューは、僕が今まで体験したことのない練習で、革新的に感じたのを覚えています。

そして、その練習の中で高く評価された2人のチームメイトがドイツへサッカー留学に行きました。1ヶ月ほどでしたが、彼らが見違えるようなプレーヤーになって帰ってきた事、そして彼らのドイツでの練習参加の話を聞いて、高卒でドイツに行く事を決心しました!!

準備期間

高卒でドイツに行く事を決心しましたが、サッカーしかしてこなかった高校生の僕は、両親からの経済的な援助なしでは、実現が困難でした。そんな状況の中で両親に相談をしたところ、「大学には進学してほしい。進学しないのであれば、経済的な援助はしない。」とキッパリ言われて、それならば大学でドイツ語やドイツの文化について勉強しようと思い、大学ではドイツ語専攻を学びました。そして、大学に通う傍、ブリオベッカ浦安のトップチームでトレーニングしていました。チームの中で、Jリーグや大学リーグで活躍していた先輩達にケツを叩いてもらいながら、日々サッカーをしていました。

プロを目指したドイツでの2シーズン

大学3年の夏からドイツ・ラインラントプファルツァ州にあるSG Eintracht Mendig/Bellというチームに移籍しました。このチームは、ドイツ6部リーグのチームです。当時の待遇としは、固定給で400ユーロ。勝利給が各出場選手に50ユーロ。(出場時間で換算)

アパートはチームが見つけてくれて、月に400ユーロのところにチームメイトのアメリカ人とルームシェアをして、月に200ユーロでした。

1年目は全試合に先発で出場し、運動量と守備面でアピールしました。その頑張りが実ったのか、ハンブルク5部のチームからオファーをもらいましたが、この話をSG Mendigに話した際に、月給450ユーロに上げてくれるのに加え、車も貸してくれるというオファーを受けました。ハンブルクのチームが、どうしても僕の事を必要としていなかった印象を受けたこと、そしてSG Mendigが経済面であまり余裕がない中で昇給してくれたことを考慮して、SG Mendigに残留する事に決めました。

当時、2年間の間にドイツでプロチーム(ドイツ4部以上)に加入する事が出来なければ、日本に帰国すると心の中で決めていたので、この2年目が勝負の年でした。

しかし、パッとした結果を残せないまま半シーズンが過ぎました。この時点でどこからもオファーはなく、とにかく焦る気持ちで毎日サッカーをしてました。それに加えて、チームの監督が変わり、初日の練習からサブメンバー組に回され、出場機会が激減しました。あの時の悔しい気持ちは今でも忘れません。

そんな中、とある知り合いの方のツテでドイツ人の代理人の方を紹介してもらい、練習を見てもらうチャンスを得ました。これが最後のチャンスだという思いで、ドイツ5部のチームの練習に参加しました。そして、その代理人から「今、4部のチームで降格争いをしているチームがある。このチームだったら紹介できる。」と言われ、このチームがこのシーズンで残留する事が出来れば、もう1年ドイツでプレーできて、出来なければ帰国という状況になりました。ただただ僕はそのチームの残留を願いながら、練習に励みました。しかし、願いは届かず、このチームは降格し、2年の間にドイツでプロになるという僕の目標は達成できませんでした。

日本に帰国後、苦悩の1年半を過ごす...

完全燃焼ではないですが、少し僕の中で大きな目標を失い、帰国直後は色々悩みましたが、まずは大学に復学して、卒業したらドイツへ行くと心に決めてました。そして卒業まで1年半あったので、夏休みや春休みなどの長期休暇は、所属していたSG Mendigから飛行機代をスポンサーしてもらい、ドイツへ渡航してチームに合流していました。つまり、選手の登録がドイツに残してあったので、日本でプレーする事が出来ず、日本ではひたすら走り込みと体の強化に励んでました。大学卒業後はドイツへ戻ると意気込んだものの、行ったり来たりする中で、他の選手よりも試合数をこなさない事や日本でトレーニングできない事に嫌気がさしたり、周りの人は就活をしているのを見て、少しずつ僕の決心が揺らいでいきました。そして、卒業後にドイツに行くための準備としてアルバイトもしようと思い、卒業までの残りの約8ヶ月間はサッカーから完全に遠ざかりました。この時期は、現役を続けるか、就活をするかで特に悩みました。日本にあるドイツ企業から就職の話をもらった時があって、その時は本当に揺らぎました。しかし、僕がアルバイト先の仕事で、目の前でキラキラと活躍している現役のトップ選手達を見て、僕もまだ現役を続けたいという想いが引退を踏み留めました。

そんな中、毎週参加していたフットサルのグループにスイス人の人がいました。その人から「スイスでサッカーをやってみれば」と当時は冗談半分だったのかもしれませんが、僕に勧めてきて、その帰り道にGoogleで調べてみたら、スイスサッカーに関する日本語での新しい情報が全くなくて、僕はこれを見たときに直感的に「チャンスだ!」と思ったんです。今、論理的に考えると、

・ドイツ語圏だという事

・スイスリーグがドイツブンデスリーガの登竜門的な存在である事

・日本人が当時誰もいなかった事

というのが、魅力的に感じたんだと思います。

そこから本格的にスイスに行く準備を進めました

道場破りでスイスでのチーム探!?

何もツテもないところから、スイスに入国してチーム探しから始まりました。累計50通ぐらいはクラブにメールを書いて、練習参加をお願いしました。その中でまず直ぐに連絡をくれたのが、スイス6部のチームで、FC Marthalenというチームで、8ヶ月のブランクを戻すために必死でした。そして、そこで練習参加をしつつ、チーム探しを続けました。時にはスイス3部のサッカークラブのGMの会社にまで行って、直談判しようとしましたが、受付嬢の方に門前払いされることも。とにかく、出来る限りのことをやってチームを探している中、FC Bassersdorfの監督にテレアポを取ると、話を聞いてもらえて、練習参加をさせてもらえることになりました。そして、この同じタイミングでFC Red Starというクラブの2軍チーム(当時FC Bassersdorfと同じカテゴリー)からも練習参加の許しが出ました。まず初めにFC Bassersdorfの練習に1週間参加し、その後FC Red Starに参加しました。

FC Bassersdorfからは、すぐに契約の話になりましたが、そこで問題となったのがビザの問題でした。スイスサッカー協会では、基本的にはスイスのビザを取得していない選手はプレーできません。当時の僕はドイツのワーキングホリデービザでスイスに滞在していたため、本来であれば登録できないのですが、チームの監督がサッカー協会と立ち会ってくれて、登録させてもらえることになりました。

そして、その直後、FC Red Starからも本格的にチームに加入して欲しいという話になりましたが、先にFC Bassersdorfで契約の手続きを進めて貰ったので、断らせて頂きました。

最後に今シーズンの目標を教えて下さい!!

今シーズンもチームとしては、昇格を狙っていきます。僕個人としては、より高いレベルでプレーできるように成長し、スイスのプロリーグに参入できるよう日々努力していきます。そして、誰かが僕の活動を見て、背中を押されたり、元気になってもらえたら本望です。

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