新宿の西口と東口をつなぐ連絡通路。80年代にはまだ、コンクリートがむき出しで、いつもすえた匂いがした。
この薄暗い通路を抜け、東口に出ると、線路を隔てる壁には一面に様々な封切り映画の看板が貼ってあった。
80年代までの新宿は、反体制の象徴だった60年代の名残を残し、表通りから一歩入ったところの魑魅魍魎が跋扈するようないかがわしさと市井の人々の幸せが同居した奇跡の街だった。
新宿からバスで10分という場所に生まれた僕は、幼い頃から、西口の小田急、京王というデパートによく連れてこられた。だが、この連絡通路を家族と通ることはなかった。しかし、中学生になって歌舞伎町で映画を観るようになると、イッパシのオトナになったような気持ちで、ここをくぐって東口に出た。この連絡通路は僕にとってオトナとコドモの境界線だった。
境界線の西口側には、戦後闇市の風情を色濃く残した、露天のようなサングラス屋、アメカジショップなどが小さな場所にひしめき合っていた。この中のアクセサリー屋にデビュー前の SION がいたという。
SION を初めて聴いたのは高校2年生の時、新宿の帝都無線で売られていた自主制作盤『新宿の片隅で』だ。
それは、クラスメイトのタロちゃんから渡されたカセットだった。高1から高2に上がるときにダブって1つ年上だったタロちゃんは僕と同じく毎日の閉塞感からの逃げ場を音楽に求めていた。
ポストパンクに夢中で、特に繊細で退廃的な音を好んでいたタロちゃんから渡されたカセットから流れるしゃがれた声のギターの弾き語り… 意外だった。
この中に収録されている「街は今日も雨さ」に映し出された世界は僕の想像をはるかに超えた連絡通路の向こう側の真実があった。
新聞の広告で 仕事を拾った 朝から晩まで 指紋がすりきれるほど 皿を洗いつづけて たったの3200円
なにが都会の 気ままな暮しだ それどこじゃねぇ まったく それどころじゃねぇ
新宿の連絡通路の向こう側には、僕が触れてはいけない、いや触れることのできない何かがあるということは、幼いころからなんとなく分かっていた。そこに潜むブルースを目の当たりにさせてくれたのが SION だった。
SION の声にはむき出しの真実があった。
SION は唄の中に生き様を残した。
十代、二十代、そして今も新宿を遊び場としている僕は、この連絡通路を通るたびに、いつもこの曲を思い出す。そして、「街は今日も雨さ」はこんな風に続く。
おふくろは 静かな声でたったひと言 生きてなさい そう言った 街は今日も雨さ
このフレーズが入ると、僕は涙をこらえられなくなる。新宿の街では、今日もいくつもの生き様があってドラマがあるだろう。その中のひとりとして、僕は胸を張れるもの、言葉にできるものがあるだろうか。あの連絡通路を抜け、東口一面に広がるネオンを見るといつもそう思う。
17才のあの日、タロちゃんから渡された一本のカセット。彼とは卒業して一度も会っていない。
僕には SION の唄があまりにも重すぎて、その感想を伝えていない。タロちゃんはなにを思い、僕に SION を聴かせようとしたのだろう。30年以上経ったいまでも、たまにぼんやりと考えることがある。
歌詞引用: 街は今日も雨さ / SION
※2017年10月10日に掲載された記事をアップデート
カタリベ: 本田隆