プロフェッショナル 矢沢永吉、自ら剥がし落としていった不良音楽のレッテル 2019年 9月4日 矢沢永吉のアルバム「いつか、その日が来る日まで…」がリリースされた日

初めて矢沢永吉の音楽に触れたのは中学1年の終わりぐらい。僕らが通う団地の新設校は、短期間に周辺の人口が増加したため転入生が多かった。そのうちの一人、ある新しい友だちの家へ遊びに行くと、彼の部屋の壁には黒い革ジャンでキメた男たちのポスターが貼ってあった。

「これ誰?」と訊ねると「これはもう解散したキャロルというロックバンド。で、この人がリーダーの矢沢永吉って人、その隣はジョニー大倉…」と言いながらポスターの人物を一人一人指差しながら教えてくれた。色んな転校生がいたが、彼はいつも僕らの持ち物よりも少しいいものを持っていて、大人びたところあった。またなぜか下ネタの方の知識も豊富だったから、まさに厨二病に罹患寸前の僕らに相応しい新しい仲間だった。

「それでキャロルって、どんな曲を演るの?」と訊くと、彼はカセットテープを取り出し、愛用するアイワのステレオラジカセで、代表曲「ファンキー・モンキー・ベイビー」を聴かせてくれた。

今でこそ伝説のバンドといわれるけれど、テレビはもちろん、当時僕らが普段聴いているラジオの歌謡番組などでは、まず耳にする事はなかった。その上、どう見てもアウトロー風のルックスは僕らのようなガキ共を寄せ付けなかった。

年代的に、まあまあ洋楽も聴くようにはなっていたけれど、まだ視野が狭かったこともあって、ビートルズの初期をお手本にしたというキャロルのオールドスタイルなロックンロールは、その当時それまで聴いたことのないジャンルの音楽だった。

既にハードロック全盛期だったから、思いがけずポップな演奏に聞こえてしまったこともあって、これが “ファンキー” ってことなのだと、勝手に解釈していた。革ジャンにリーゼント… こんな曲を演奏するのに、このファッションスタイルが必要なのか理解できず、世を拗ねた不良のふざけた音楽と思い込んでしまった。

その友だちは昔風に言う “不良” ではなかったけれど、素行の良くない仲間もいて、僕らも影響を受けていわゆる不良風のスタイルを日常に取り入れていった。鞄をつぶし、長ラン、ボンタン…。パーマや茶髪は校則違反なので、髪はポマードで撫で付けたり、坊主頭には剃りこみいれたりして、ささやかな抵抗を試みる。

だがあまり目立ち過ぎて、上級生から目をつけられたり、街中で絡まれたりするのは面倒なので、常に自分の立ち位置を意識しながら、いい具合の落し所を探る日々だった。今では考えられないぐらい週末の繁華街は治安が悪く、そこらじゅうでカツアゲが横行していた時代だった。ヤンキー漫画の代表作『ビー・バップ・ハイスクール』などより、はるか前のことである。

かくして苛烈な緊張下の日々にあった、僕らがうまく世を渡るため、思いつくのは時折 “そういう” 人たちとも顔なじみになっておくことである。別に金品を貢がなくてもいい。ただ面白いヤツ、話のわかるヤツと思われておくことだ。

とにかく “永ちゃん” こと、矢沢永吉は彼らから絶大なる支持を集めていたから、ヤザワを知ることは、彼らとの共感の架け橋となり、カバンに貼る “E.YAZAWA” のステッカーは僕らにとって魔除けのようなものになった。

1975年にキャロルを解散した “永ちゃん” は、ソロに転じてから、1977年には国内アーティストして初めて日本武道館での単独ライブに成功。翌1978年には3月発売のシングル「時間よ止まれ」、6月発売のアルバム『ゴールドラッシュ』が共にヒットチャート1位を獲得。

余勢を駆って、8月には後楽園球場での初のコンサートを敢行するなど、次々と金字塔を打ち立て、この年の高額納税者の芸能部門で第1位となる。

それまでの長者番付といえば、吉田拓郎や井上陽水のようなフォーク系のシンガーソングライターが常連で、とにかく曲を書いて唄って、レコードを売って稼いでいる人たちというイメージ。一部で熱狂的とはいえ、コアな支持層しか持たないロックミュージシャンがスタジアムに何万人も集め、頂点に立つなど考えもしないことだった。

加えてその覇道と生き様をしたためた著書『成りあがり』は同年7月に発売。ベストセラーになるに至っては、成功者の象徴としてカリスマ的な人気を誇るようになり、その熱狂的な支持にはさらに拍車が掛かった。僕らが永ちゃんに出会ったのは、まさにそんな年が明けようとしていた時だったのである。

キャロル以来のオールドファンの中には、ソロになってバラードなんかを歌っている姿を、売れセン狙いだとか、幻滅したとかいう見方をする人たちもいたようだが、僕らのように歌謡曲で育った新しいリスナーにはありがたい変節だったと思える。

だが当の永ちゃんは、バンドとしての活動に見切りをつけ、音楽のスタイルばかりか、レコード会社もマネージメントも変え、レコード会社との違約金とその負債も全て一人で背負っての新たな船出であった。そしてキャロルではできないものをひらすら追い求め、わずか3年で掴んだ栄光だった。

矢沢永吉はビッグな存在となり、特に『成りあがり』が出てから、音楽家としての枠を超え、その言動が注目されるようになった。よくアルバムのプロモーションを兼ねて取材を受けることはあっても、これほどインタビューを受け、自分について率直に語り注目を集める人はいなかったのではないだろうか。

まさに当時から音楽家である自分がメンター的な扱いを受けていることについての戸惑いを語っていることもあったが、同時に言葉の持つ力、影響力について体得できたはずである。自分がどういうメディアで、何を発信すればリスナー達にどう伝わるのか、後にビジネスパーソンとしてその知識や経験を最大限に活用した。

よく彼が自らを語る際に “オレ” 以外に “YAZAWA” という一人称を用いることがある。確か1982年頃のことだったか、評論家の渋谷陽一氏のラジオ番組に出演した際、矢沢永吉、一個人としての場合は “オレ”。音楽家としての存在、意思を示す自分が “YAZAWA” であると語っていたのを覚えている。

時折スタッフに対して発せられたという「オレはいいけど、YAZAWA は何ていうかな。」という台詞にまつわる逸話は多い。相手に対する気遣い、優しさはある。だがプロとして譲れない一線がある時には、音楽家 YAZAWA として意思を伝えた。ずるいやり方かも知れないが、ビジネスの観点で見れば、それはブランディングそのものである。

ファンに対して自分はどういう存在でなければならないか、常に意識し、パブリックイメージだけでなく、根本にある創作活動の取り組みにまでそれは一貫している。すべては YAZAWA という企業の唯一の商品である「矢沢永吉」のブランドバリューをいかに守るかということなのである。

音楽ビジネスの観点において、矢沢永吉が先駆者として成し遂げてきたことは数多い。特に権利関係においては、後進に対しても多大なる恩恵をもたらしたとされている。

かつて彼が、いかにビートルズに影響を受けたかということを話したことがあったが、まず触れたのはマネージメントに関するもので、それはビートルズのマネージャーとなるブライアン・エプスタインが初めてジョン・レノンを訪ねるきっかけとなったエピソードである。この二人が初めに「音楽を金に変える方法」について話をしたという事実にふれ、まさに彼は音楽を志した瞬間からそれを強く意識していたことを明かしたのだ。

僕らはこうして何年もの間、語られてきた多くの語録によって彼の考え方に触れ、距離を縮め、リスペクトを重ねていった。

「僕だってこんな事、誰かに任せて、好きな音楽だけ作っていたい。でも誰がやるの? 自分がやるしかないでしょ!」

そんな言葉を聞きながらビジネスの深みを知って、音楽家 矢沢永吉への信頼を深めていく。クリエイターとしての純粋な衝動に共感もするし、冷徹なプロとしての判断を知ることもある。そうして僕らの自身の成長と共にいつしか不良の音楽としてのレッテルも剥がれ落ちていった。

だが相変わらず永ちゃんのファンは熱狂的で、いかに自分が相手より熱いかを競い合うから、会場はもめ事が絶えず、かつては暴走族の集会のような様相を呈していた。自ら撒いた種とはいえ「なんでオレのとこには、はぐれもんばっかりくるんだよ!」と嘆き、何時もそのことに頭を悩ませていたのも、永ちゃん自身であった。

やがて運営側のトップである自らが「威圧的な服装」と「飲酒」を禁じ、違反者にはファンクラブからの除名を命じたことで、今現在、会場問題については沈静化しているようである。

70歳目前にして、9月4日にリリースされた最新アルバム『いつか、その日が来る日まで…』は翌週のアルバムチャートで歴代最年長となる1位を獲得した。8月24日には NHK の独占密着の特番、8月25日はテレ朝『関ジャム』、8月30日は同局『ミュージックステーション』に出演。

YouTube には連日「最後のレコーディング」なる動画が掲出され、大掛かりなプロモーションはひとまず成功したといえるだろう。だが7年前、これが最後と言われたアルバムが『Last Song』で、今回もまた思わせぶりなタイトル。もし次作が出るとすればさしづめ『Never End』というところだろうか。 マネージメントのお手並み拝見である。

カタリベ: goo_chan

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