忘れられた歴史的つながり スコットランドと長崎

 20日開幕のラグビーワールドカップ(W杯)日本大会に向け、スコットランド代表チームがキャンプ地の長崎市で滞在、練習している。長崎とスコットランドにはどんな歴史的なつながりがあるのか、あらためて調べた。

グラバー家の墓=長崎市坂本1丁目

 長崎でスコットランドといえば、貿易商トーマス・グラバー(1838~1911年)がまず思い浮かぶ。スコットランド出身のグラバーは、1859年9月に来崎した。当時21歳。以後、「グラバー商会」を設立し、幕末の動乱を背景に蒸気船や武器などの輸入で事業を拡大。また小菅修船場の建設や高島炭鉱の開発に携わるなど、日本の近代化に貢献した。
 グラバーに先駆けて同年1月ごろ、スコットランド出身の商人ケネス・ロス・マッケンジーが長崎に来ている。貿易会社「ジャーディン・マセソン商会」の代理人で、インドや中国の港で人生の大半を過ごした人物だ。
 当時は日本が鎖国から開国へ向けて踏み出した時期。長崎が開港する約半年前に来崎したマッケンジーは、開港へ向けてさまざまな準備をした。外国人商人の草分けで、大浦の外国人居留地の規則に関する幕府との最初の協約に、長崎駐在フランス領事として署名。グラバー来崎時にはすでに同商会の支店を開設し、グラバーは当初、その事務員として雇われた。
 長崎が開港すると、多くの外国人が長崎に流入した。そのなかにスコットランド人はどのくらいいたのだろうか-。

 居留地史に詳しい長崎総合科学大のブライアン・バークガフニ教授の調べによると、長崎の外国人墓地などに眠る外国人は722人。イギリス出身者が最多の279人で、うちスコットランド出身と分かるのは29人だった。多くは長崎が国際貿易港として繁栄した明治期に来ていて、職業は船乗りをはじめ商人や船大工、ホテル経営者などさまざまだ。
 大英帝国のなかでも、当時経済状況があまり良くなかったスコットランドでは、若者が一獲千金を夢見て海外に出るケースがよくあったという。また蒸気機関の実用化などスコットランドはいわば産業革命の発祥地でもあり、造船業などの技術者が大英帝国のネットワークにより日本にも多く訪れた。

スコットランド出身で、三菱長崎造船所の初代所長の右腕として現場を指揮したジョン・コルダ―(ブライアン・バークガフニ教授提供)

 その代表的な存在が、1867年に来崎した造船技師のジョン・コルダーだ。84年に三菱が長崎造船所を借り受けた時期から、初代所長の右腕として現場を指揮しており、バークガフニ教授は「船を造る責任者で、本当の功労者。残念ながら今は忘れられた存在」と語る。
 人的な交流だけではない。世界文化遺産「明治日本の産業革命遺産」の構成資産である「ジャイアント・カンチレバークレーン」はスコットランド製。また大正から昭和初期に運航した上海航路の「長崎丸」「上海丸」の姉妹船も、スコットランドで建造された。
 スコットランド人が大切にしている11月30日の「聖アンドリュー記念日」には、毎年長崎のホテルや料理店で日本人も招いて盛大に祝った。提供されたスコットランド料理のメニューやプログラムなどが当時の英字新聞で大きく報じられており、居留地時代の長崎でスコットランド人社会が確かに形成されていたことがうかがえる。
 バークガフニ教授は「全然知られていないが、グラバーだけでなく多くのスコットランド人が長崎で活躍し、貢献した。彼らの独特の文化、心がそれなりに長崎に影響を与えた」と話す。

1887年に長崎であった聖アンドリュー記念日の催しを伝える英字新聞の一部。振る舞われたスコットランド料理のメニューも記載している

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