民主政権誕生から10年 渡辺創代表(立民県連)に聞く

わたなべ・そう 宮崎東高、新潟大卒業後、毎日新聞社に入社し、政治部などを経て2009年退社。10年7月の参院選宮崎選挙区に民主公認で立候補し、落選。11年の県議選で初当選し、連続3期目。民主、民進党県連幹事長などを経て18年2月から現職。

 2009年8月の衆院選で大勝した民主党代表の鳩山由紀夫氏が同9月16日の特別国会で首相に選出され、民主党政権が誕生してから、きょうで10年が経過した。当時、毎日新聞政治部で同党幹事長の小沢一郎氏らを取材し、後に同党県連幹事長などを務めた県議で立憲民主党県連の渡辺創代表(41)に、同政権誕生や終焉(しゅうえん)の背景、政権の意義などを聞いた。
 ―いつごろから、どのようなことで政権交代の可能性を感じたか。
 「2007年の参院選で自民が大敗してからだ。自民は2000年代前半、『改革派の小泉純一郎対守旧派』のような党内の疑似政権争いで求心力を維持していた。その後、安倍晋三、福田康夫、麻生太郎氏が首相になったが、何をやってもうまくいかず、打つ手なしの状況だった」
 「民主は二大政党制を志向して高速道路の無料化、高校無償化、子ども手当の創設などの政策を掲げていた。有権者の気持ちが自民から乖離(かいり)する状況で民主に期待感を持ち、今度総選挙をすれば政権交代が起こる、という高揚感も感じた」
 ―政権交代が実現し、永田町はどのような空気だったか。
 「お祭りのような感じだった。柱になる政党が明確にある状況での政権交代は極めて希有(けう)なできごとで、高揚感、期待感だけでなく不安感もあった。霞が関の役人は、政権交代がありそうだという段階から小沢氏に接触していた」
 ―鳩山、菅直人、野田佳彦氏を首相とする連立政権は3年余りで終止符を打った。なぜ短命に終わった。
 「一つは政党としての成熟度に課題があった。与党は政策的なことに答えを出さなければならない時があるが、意見はゼロか100か、にはならない。そこを目指しつつ、70の合意形成ができたところで判断することが、ものごとを前に進める手法であり、与党の仕事。しかし、ものごとを決めるシステムが未熟で、もめた。そのこと自体、党として未成熟だった証しだ」
 「歯を食いしばり政権を維持し、政権全体で国民に何を示すかが最も重要だったはずなのに、それぞれの理由、事情による正義で離党する者が出てきた。極めて政局的な話に矮小(わいしょう)化されてしまい、残念だった」
 ―民主は16年3月、維新の党と合流して民進党となった。民主党とその政権は、どのような役割を果たしただろう。
 「あのタイミングで民主党政権が誕生したのは、国民の判断だった。評価は国民がすることだが、例えば自民が行う高等教育無償化などは、民主党政権下で政策の思想転換を図ることができたからこそ、実現できる。3年3カ月の民主党政権で生まれた萌芽(ほうが)が、その後の政治に残っているのは事実。きちんと花を咲かせるようにすることが、民主を源流に持つ政治勢力に求められる」
 ―現在、県政も自民1強の状況だ。どう対峙(たいじ)する。
 「強いカンフル剤を打てば一発逆転できる、という状況にはない。政治の力強さは、民意という風が吹くこと。その風を受けきる帆を張ることができるかが重要で、選挙に候補者を立てて帆を張らなければ、風を受け止める役割すら果たせない。野党は苦しいという宮崎の事情はあるが、帆を張る体制をどう構築するか、責任を果たしていく」(宮崎市・立憲民主党県連事務所で)

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