82歳で死去した元阪神バッキー氏 日本で花開き、通算100勝をマーク

ジーン・バッキー氏のNPB通算成績

米国では“ノーコン投手”、1962年にテスト入団

 9月14日に82歳で世を去った元阪神の投手、ジーン・バッキー氏は1937年8月12日、米ルイジアナ州に生まれ、大学から1957年にデトロイト・タイガースとマイナー契約した。1年目は3つのマイナーチームで投げたが0勝9敗、2年目は11勝を挙げたが防御率は3.94。以降も成績はぱっとしなかった。問題は制球力だった。完投すれば4-5人は四球で歩かせた。191センチの長身。ボールの威力はあったが、投球は安定しなかった。

 1961年にはツインズに譲渡され、翌62年はエンゼルス傘下のハワイ・アイランダーズでプレーした。当時、このチームはエンゼルス傘下の3Aだったが、かつてはアマチュアチームであり、日系人もプレーしていた。バッキーは救援で2試合、1イニングを投げたが自責点1。リリースされることが濃厚になっていた。

 そこで、阪神タイガースの入団テストを受けることになった。バッキーは1962年7月にチームを離れ、来日した。阪神は戦前から外国人がプレーしていたが、すべてハワイ出身を中心とした日系人だった。日系以外の外国人は、1960年のマイク・ソロムコが初めてだった。当時は特定のスカウトはおらず、仲介者に紹介された選手を、球団がテストして獲得を決めていた。バッキーはテストでもノーコンだったが、藤本定義監督が獲得を指示したという。

 バッキーは日系以外では初めての外国人投手。阪神はこの年、マーク・ブラウンスタインという投手もテストを経て獲得している。ブラウンスタインは、米国の大学卒業直後に入団したが、1軍で出場することなく退団した。

 バッキーは、甲子園に近い木造アパートに住むことになった。家賃は自分持ち。甲子園には歩いて通った。メジャー経験のないバッキーには球団もそれほど期待していなかったのだ。初登板は8月9日、東京スタジアムでの国鉄戦。ダブルヘッダー第2試合に先発したが、2回3失点で敗戦投手になった。投手の金田正一に本塁打を打たれた。

 登板2戦目は8月13日、後楽園での巨人戦で敗戦処理。しかし3戦目の8月15日、川崎球場での大洋戦で先発して7回自責点2と好投。勝ち星はつかなかったが、徐々にチームの信頼を勝ち得ていった。

“日本式”に順応、強い探求心で「一人前」の投手に成長

 米国でプレーしていた当時、バッキーが四球を多く出したのは、その変則的な投球にも原因があった。サイドやスリークオーターなど投げ方が変わる上に、不規則な変化をするナックルを投げていた。これを捕手がしっかり捕球できなかったのだ。しかし阪神で相棒となった辻恭彦は、突き指をしながらもバッキーのナックルを捕球し、好投を引き出した。

 当時のプロ野球は遠征もキャンプも日本旅館。畳の間だった。外国人も特別扱いはなかったが、バッキーはこれにも順応した。長身のバッキーが、寸足らずの浴衣を羽織って長いスネを出してくつろぐ写真が当時の野球雑誌に載っている。

 バッキーは「背水の陣」で日本にやってきた。当時の梶岡忠義投手コーチの指導を熱心に受けたほか、「針の穴を通す」と言われたエース、小山正明の投球を食い入るように見つめた。

 こうしてバッキーは日本で「一人前の投手」になり、1964年には29勝9敗、防御率1.89。最多勝、防御率のタイトルを獲得し、外国人として初の沢村賞を受賞した。この年東京オリオンズに移籍した小山の穴を埋めて、村山実とともにダブルエースとして活躍し、チームのリーグ優勝に貢献した。翌65年6月28日の巨人戦ではノーヒットノーランを達成している。

 バッキーは1968年9月18日の巨人戦での乱闘騒ぎで、右手の親指を骨折。この負傷で実質的に選手生命を絶たれた。このシーンはテレビで生中継されており、大きな反響を呼んだ。翌69年は近鉄に移籍するものの再起ならず。NPB通算100勝でキャリアを終えた。これは、昨年10月に亡くなったジョー・スタンカとともに米国出身の投手としてはNPB最多勝だ。

 NPB通算成績は251試合に登板し、100勝80敗。1596回2/3を投げて防御率2.34だった。

 今年9月13日、バッキー、スタンカの記録にあと2勝に迫っていた阪神のメッセンジャーが引退を表明した。その直後のバッキーの訃報である。バッキーは阪神時代を「人生最良のときだった」と述懐している。退団後も、バッキーは不思議な縁で阪神と結ばれていたのだろう。(広尾晃 / Koh Hiroo)

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