早すぎたニューロマンティック、時代は「ジャパン」に追いつけなかった 1979年 4月12日 ジャパンの12インチシングル「ライフ・イン・トウキョウ」がリリースされた日

ニューウェーヴの一派とされるニューロマンティック… 当時は「フューチャリスト」、つまりそれまでに無かった近未来的集団とも称された。1981年ごろをピークにその後1年ほどで衰退してしまったこの儚いムーヴメントがどんなものだったのか、それを無理やり定義するとしたら、

“中世(中性)的なメイクとファッション” “フロア映えする踊れる音楽” “ダンディズムを強調したエロい世界観”

といったところだろうか。

エロい、といったらなんだか俗っぽく聞こえるけども、官能的でギラギラしててナルシスティックで、なおかつ浮かれた雰囲気というのはニューロマなアーティストたち全員が持っていたと思う。

まさに華の80年代という時代を体現していたかのようなロマン溢れる美学。個人的には80年代をリアルタイムで体感できなかったやり場のない悔しさを昇華させてくれる、ある種の憧憬でもあるのです(笑)。

アンダーグラウンドなクラブでつるんでいた若者たちが、いつのまにか世界を席巻するムーヴメントを作ってしまったその精神は、今の感覚で言えば、すごく芸術的なパーティーピープルといったところだろうか。

ニューロマに関して言えば、そんな彼らのインスピレーションの源は、デヴィッド・ボウイやロキシー・ミュージックといった、これまた独特の美学を追求していたグラムロックの連中、そして音楽的にはクラフトワークや YMO など、当時最先端のシンセサイザーを駆使した “乗れる” テクノポップだったのである。一部シンセサイザーを使わないニューロマバンドもいるが、それを書くと終わらないので本日は割愛させていただくが。

こうした先人たちの影響を受けながら、1981年にデュラン・デュランが「これからの時代はニューロマンティックなのさ」(彼らのデビュー曲「プラネット・アース」の一節)とか意気揚々と歌ってニューロマ旋風を巻き起こすもっと前、ニューロマの原点であり、また完璧な形でニューロマスタイルを確立した曲がありました。それがジャパンの「ライフ・イン・トウキョウ」(1979)。

ジャパン自体はニューロマンティックではない。ないのだが、そのルックスゆえにアイドルバンドのレッテルを貼られながらも、キャリアの中で激しく音楽性を変えていく彼らの作品は、その一つ一つが先見の明の産物なのでした。

いつでも時代の数年先を行っていたために、時流に乗ったヒット曲を生み出すことに苦戦していた彼らを思うと抱きしめてあげたくなるのだが(余計なお世話)、とにかくこの「ライフ・イン・トウキョウ」をはじめとして1980年頃までのジャパンの作品群も所謂 “早すぎたニューロマ” だったのです。

それまではまるでTレックスのようなグラムロックを鳴らしていた彼らが一変して取り入れた音楽、それが当時世界で第一次ブームの最中であったディスコでした。

そこでドナ・サマーのプロデューサーであるジョルジオ・モロダーを起用。単なるブラックミュージック由来のディスコソングを作ったわけではなく、ディスコとしても最先端だったシンセサイザーと、モロダーのお家芸であるベース・シーケンサーを前面に出しつつ、ミック・カーンのドロドロしたイヤらしいベースラインは健在、そしてグラムの匂いを残したサックスが華やかに彩っている。

実にそれまでのグラムの世界観に “踊れる” ディスコミュージックを合体させることに成功したこの「ライフ・イン・トウキョウ」を、フューチャリスティック… ニューロマンティックと言わずして何と言おう。

しかしこのエポックメイキングなシングルが当時大衆に理解されることはなく、セールス面では不振に終わってしまったのです。

それでもこの曲がロックの新しい歴史を作ると彼らは確信していたのだろう、その後1981年と1982年の二度にわたり再発、彼ら自身でこの曲をチャートに送り込もうと奮闘していたのでした。

そしてニューロマが世界に浸透し終わった1982年に再発したヴァージョンが、ようやく全英シングルチャート28位まで上昇。アルバム『錻力の太鼓(Tin Drum)』(1981)の成功も手伝い、3年越しに彼らの思いが結実した瞬間なのでありました。

とはいえ、個人的には何といっても1979年の12インチヴァージョンが最高!ミックスダウンの甘さにもグッとくるし(笑)、やはりグラムな雰囲気がいちばん強く残っているのはこのヴァージョン。展開にもカタルシスがありつつ無駄は無い。あっという間の7分間だ。

ちなみにこのヴァージョンの MV では冒頭、シンセサイザーという新しい機材が表現の多様性と素早い楽曲制作を可能にした云々、という語りが入っていて、当時のジャパンが新しいアプローチに意気込んでいたのが伺える。…のだが、その後は日本の TV 局の OP 動画集が挟まれるという奇妙な展開となっている。ジャパンは遊び心満載な MV をよく作ったそうだが、この動画に関してはファンメイドの可能性も否めないので、どなたか真偽の程ご存知だったら是非教えて欲しいです。ツイッターでお待ちしてます。

何はともあれ、そんなシンセ・サウンドへの挑戦と、「ライフ・イン・トウキョウ」のタイトル通り、彼らが接近した日本文化へのイメージについて、ドラムのスティーヴ・ジャンセンが最近インタヴューでこのように語っていた。ちなみにこれは1980年以降彼らと長い蜜月関係を築くこととなる YMO に関するインタヴューである。

「僕は YMO を知る以前から、クラフトワークなどによって、テクノロジーと音楽の融合感覚には目覚めていた。だから78~79年にジャパンが日本で成功してその文化や近代的感覚を吸収する中で YMO を初めて聴いたとき、すぐにそれがジャーマン・テクノと日本的なものの融合だとわかったし、彼らの遊び心は当時の日本社会を反映していると思って惹かれた。そういうわけで YMO や彼らの国である日本に近づいたんだ」 (『レコード・コレクターズ』2019年3月号)

ジャパンというバンド名をつけるにあたって、結成当初は特に日本を意識せず「言葉の響きで適当につけた」という彼らだが、キャリアを重ねるにつれて日本との関係は切っても切れないものになったことは、皆さんご存知の通り。

日本のアーティストとは、互いに影響し合いながら音楽的にも進(深)化を遂げていった彼ら、そんな先を予見していたかのようなバンド名にも、なんだか不思議な縁を感じてしまう。

カタリベ: DJ Moe

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