【明治維新鴻業の発祥地、山口 今年は大村益次郎遭難から150年】 No.193

▲品川台場跡にたたずむ(東京都港区)

(9月11日付・松前了嗣さん寄稿の続き)

江戸行幸準備

 6月4日、益次郎は、従四位下に叙され、鎮台府民政会計掛となり、江藤新平とともに、治安強化を図ることになった。

 これより先、5月19日、江戸には鎮台が置かれ、その管下には、寺社・市政・民政等の裁判所が設けられた。

 彰義隊を敗走させたことにより、江戸や関東周辺の地域は、新政府の支配下となったが、民心は安定していなかった。

 そこで木戸孝允は、江戸に天皇を迎え入れることによって、民心を引き付けようと考えた。

 以下、6月25・27・28日の孝允の日記である。

 「七字(時)品川沖に著舶す。一漁舟を雇ひ品川橋向の海岸に着す。松岡屋に至り食事を認む。(中略)十一字頃、品川を出、西城御本営に至る。逢大村與大木と共東着之儀を條公(三条実美)之御次へ相届、大木は去て藩邸に至る。與大村四月来之内外之を談す」

 「朝、大久保、大村、大木、諸氏と我居に相会し此度之要件を密儀す」

 「朝大雨、此日、大久保、大村、大木、諸氏と江戸府官舎之躰裁よりして関八州の鎮台位置を論じ、條公に言上しー」

 ここにも、新政府の中枢に位置する益次郎の姿を見ることができる。

(続く。次回は9月25日付に掲載します)

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