歴史の中に消えた「白鬚線」を求めて

白鬚線が写った貴重な写真(高橋一徳さん提供)

 【汐留鉄道倶楽部】ここに1枚の古い写真がある。1人の着物姿の凛々しい男性が線路の上に立っている。線路の向こうは小さな踏切。線路は徐々に高くなり、奥には建物や林のような景色が見える。

 これは昭和初期、わずか8年間運行した「京成白鬚線」(向島―白鬚間、1.4キロ)を撮影した、貴重な写真だ。白鬚線の写真はこの他には京成電鉄が保有する白鬚駅ホームに停車する電車を写したもう1枚(文末に掲載)しか知られていない。

 この写真は東京都墨田区東向島に住む近世芸能研究家、高橋一徳さんから提供を受けた。高橋さんによれば写真は祖父の一郎さん=1908(明治41)年生まれ、1999(平成11)年没=が、1928(昭和3)年に上京後、すぐに撮影したものだという。「当時、寺島町7丁目(現東向島4丁目)で商売を営んでいた祖父の家の裏手から路地を抜けると、写真の場所に出たそうです」

 この写真が撮られたのは京成玉ノ井駅付近。永井荷風の「濹東綺譚(ぼくとうきたん)」で有名な、旧玉ノ井遊郭があった場所だ。京成白鬚線は都心に乗り入れのため建設され、将来は隅田川を白鬚橋で渡り、三ノ輪より王子電気鉄道(現都電荒川線)と接続することを考えていた。その中間にこの玉ノ井駅がつくられたのは、遊郭を訪れる客を見込んだのだろう。

 地元・墨田区社会福祉会館の横山寛さんがまとめた京成白鬚線に関する資料によれば、玉ノ井遊郭は1923(大正12)年の関東大震災後、浅草にあった「銘酒屋」と呼ばれた私娼街が移転したもので、昭和3年の白鬚線開通の頃、玉ノ井の私娼街には毎晩1万5千人くらい、1年なら約200万人が訪れていたという。

 だが都心とのアクセスが悪く乗客は伸びず、さらにライバルの東武鉄道が昭和6年に浅草まで延伸すると東武の玉ノ井駅(現・東向島駅)に客足を奪われ、京成も悲願だった上野への乗り入れを同8年に果たし、役目を終えるかのように11年に廃線となった。

 京成玉ノ井駅は、東武線を立体交差でまたぎ、ホームは盛土の上に作られていた。廃線後も線路が撤去された駅跡が小高い山のように残っていたという。濹東綺譚には「去年頃まで京成電車の往復していた線路の跡で、崩れかかった石段の上には取払われた玉の井停車場の跡が雑草に蔽われて、此方からみると城址のような趣をなしている」と書かれている。

 前述の写真は、玉ノ井駅を白鬚駅(西側)から撮影したとみられ、線路が小高くなっているのはまさにこの盛土だろう。

(上)白鬚駅ホームの写真=京成電鉄提供 (下)玉ノ井の街を再現したジオラマ

 この駅について描写したもう1つの作品が、玉ノ井生まれの漫画家、滝田ゆう(故人)の「寺島町奇譚」だ。1931(昭和6)年生まれの滝田氏が銘酒屋街で過ごした子供時代を回想した作品だが、家族が「やま(山)」と呼んでいた停車場跡のイラストが登場する。雑草が生えた線路跡の横に、コンクリート製のホームがあり、鉄橋で東武線をまたいでいる。

 しかし現在、この駅があった付近を歩いても、線路どころか盛土すら残っていない。「文学や漫画に登場しながら、全く形跡すら残っていないのです」(横山さん)。鉄道の敷地は宅地として販売され、廃線跡をたどることも難しい。

 玉ノ井の往時の姿を語り伝えようと地元関係者が営む「玉ノ井カフェ」では、当時の街を再現したジオラマを作成、この中にも白鬚線の土手がつくられた。華やかな遊郭の歴史とともに消えていった旧停車場を記憶にとどめようとする取り組みだ。

 「鉄道遺産は都市の年輪」とある研究者が語ったことがある。こうした都市の発展の軌跡を、何らかの形で発掘、残していってほしいものだ。

 ☆共同通信・古畑康雄

 ※汐留鉄道倶楽部は、鉄道好きの共同通信社の記者、カメラマンが書いたコラム、エッセーです。

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