ロッテ一筋26年の現役生活を終える福浦和也 天才打者の数々の名場面を振り返る(前編)

ロッテ・福浦和也【写真:荒川祐史】

イチロー渡米後最初の年(2001年)に首位打者獲得、屈指のヒットメーカーに

 ロッテ・福浦和也内野手の引退セレモニーが23日に開催される。地元千葉県出身で、千葉県習志野市立習志野高校からマリーンズに入団して以降、1度も移籍を経験することなく野球人生を送ってきたフランチャイズプレーヤーだ。球団史上最多の2234試合に出場(9月22日時点)し、生え抜き選手としては球団3人目の通算2000安打も達成。2005年と2010年の日本一にも主力として大きく貢献した、まさしく球団史に残る偉大な選手だ。

 今回はその功績を称えて、ロッテ一筋26年の現役生活を送った福浦の名場面の数々を改めて振り返っていきたい。前編は2010年までの印象的なシーンを紹介する。

○プロ入り初のサヨナラ打(1997年7月15日)

 7月5日にプロ初出場初安打を放ってからわずか10日後の7月15日、当時21歳の若武者に大きな場面で打席が巡ってきた。同点の延長11回裏2死満塁。マウンドに立つ日本ハムの投手は、後にロッテに移籍する黒木純司投手だった。試合を左右する場面で打席に立った福浦は鮮やかにレフト前へはじき返し、サヨナラ安打を記録した。

 一塁を回ったところで先輩たちから手洗い祝福を受け、笑顔でグラウンドに転がった。後に球団最多となる12本のサヨナラ打を記録する「サヨナラ男」にとって、その始まりを告げる一戦となった。この年、福浦は67試合の出場でプロ初本塁打を含む6本塁打、打率.289。持ち前の打撃センスの一端を示し、翌年以降のレギュラー定着へとつなげていく。

○イチローの渡米後最初のシーズンに首位打者獲得(2001年10月2日)

 1994年から2000年まで7年連続でパ・リーグの首位打者に輝いたオリックスのイチロー外野手が、2001年に米球界に挑戦。誰が首位打者を獲得するか注目された年に才能を完全開花させた。2000年に過去最高の打率.296をマークしていた福浦は自身初の打率3割というハードルを大きく飛び越え、新時代のリーディングヒッター争いに加わった。

 7月まで打率3割4分~3割5分の高打率をキープし、小笠原道大内野手(日本ハム)や松中信彦内野手(ダイエー)と熾烈な首位打者争いを繰り広げる。8月に月間打率.256と調子を崩し、8月末の時点で打率は.327に下降。この時点では打率.341の小笠原と大きな差がついていた。しかし、9月の23試合で39安打、月間打率.411と猛チャージ。小笠原を上回り、リーグトップに立った。

 10月2日のシーズン最終戦はロッテと日本ハムの直接対決。その時点で福浦の打率.345に対して小笠原は打率.338。最終戦では福浦、小笠原がともに2安打ずつ放ってシーズンを締めくくり、福浦の首位打者が確定した。イチローが抜けた後の最初のシーズンに栄冠を手にした福浦はこの年から6年連続で打率3割を記録。ヒットメーカーの地位を確立した。

○史上2位の年間50二塁打でサヨナラ勝ち(2003年10月5日)

 通算388二塁打は歴代18位。外野の守備を破る二塁打は代名詞の一つだった。通算盗塁数はわずか10個。決して俊足とはいえないが、卓越したバットコントロールで外野の間を割り、あるいは左翼線や右翼線に運んで、二塁へ到達する。そんな福浦の真骨頂が発揮されたのが2003年だった。

 2001年には谷佳知外野手(オリックス)が年間52二塁打という日本記録を樹立していたが、2003年の福浦もそれに勝るとも劣らないペースで二塁打を量産した。この年の二塁打の方向を見てみると、右翼方向が10本、右中間が5本、中堅方向が7本、左翼方向と左中間がそれぞれ14本ずつ。広角に打ち分け、二塁打を量産した。

 49本の二塁打を放って迎えた10月5日の西武戦だった。福浦は5回に同点のソロ本塁打を放つなど8回までに2安打1打点。そして、同点で迎えた9回裏2死2塁で福浦は西武土肥義弘投手からサヨナラ二塁打を放って試合を決めた。NPB史上2度しか記録されていないシーズン50二塁打を達成した一打はあまりに劇的だった。福浦は2002年に40本、2004年に42本の二塁打を放ち、NPB史上唯一となる3年連続40二塁打をマークしている。

ポストシーズンでも勝負強さを発揮し、殊勲打を連発

○3戦連続2桁得点を決める日本シリーズでの満塁弾(2005年10月25日)

 ロッテは2005年に84勝49敗3分け、勝率.632でレギュラーシーズン2位となり、プレーオフで同1位のソフトバンクを破って31年ぶりのリーグ制覇を達成した。福浦は5年連続で打率3割をマークし、「3番・一塁」としてチームに貢献。プレーオフ第5戦で里崎智也捕手の二塁打で一塁から激走して決勝のホームに滑り込んだ姿は多くのファンの記憶に強く残るものだった。

 阪神との日本シリーズでもチームの勢いはとどまるところを知らず、本拠地で行われた最初の2試合で打線が爆発。10対1、10対0と2戦続けて大勝すると、甲子園で行われた第3戦でも「マリンガン打線」は好調を持続。この年のセ・リーグ最多勝の下柳剛投手から3点を奪い、6回終了時点で3対1と試合を優位に進めていた。

 そして迎えた7回、ロッテは藤川球児投手と桟原将司投手を捉えて3点を奪い、なおも無死満塁という場面で福浦が打席に。頼れる3番打者はこの場面で初球を完璧に捉え、甲子園のライトスタンドへグランドスラムを叩き込んだ。この一打でこの回7点とし、チームは3試合連続10得点の快挙を達成。完全に勢いづいたロッテは第4戦も制して、4連勝で31年ぶりの日本一に輝いた。

○クライマックスシリーズ初戦で決勝本塁打(2010年10月9日)

 山あり谷ありだった2010年は、最終戦に勝利して4位日本ハムに0.5ゲーム差で3位に滑り込んだ。2位西武とのクライマックスシリーズ第1戦はロッテ成瀬善久、西武涌井秀章両投手の好投により、拮抗した展開となった。1-1で迎えた8回裏に西武が一挙4点を挙げて試合を決めたかと思われたが、ロッテも9回表に前年まで在籍していた西武の守護神・シコースキー投手を攻めて4点を奪って同点に。試合は延長戦に突入した。

 レギュラーシーズン3位のロッテはこの試合に引き分けると、残り2試合のどちらかで1敗すれば敗退が決まる。いわば、引き分けはほぼ負けに等しいという状況だった。そんな中で迎えた11回表、先頭で福浦が打席に入った。福浦はこの年、打率.295、13本塁打と、過去3年間続いた不振から脱却していたが、対右投手の打率.318に対して対左投手は.182と、かつては苦にしなかった左腕を極端に苦手としていた。その相性もあってか、西武渡辺久信監督はワンポイントとして左腕の土肥をマウンドに送り込んだ。

 しかし、5年前の日本一を知るベテランは苦手なはずのサウスポーのボールを完璧なスイングでを捉え、試合を決める一打をロッテファンの待つ右翼席に届けた。1対5からの大逆転勝利で勢いづいたチームは、続く第2戦も1点ビハインドの9回表に里崎の同点本塁打で追いつき、2日連続の逆転勝利でステージ突破。続くファイナルステージと日本シリーズも勝ち抜き、「史上最大の下克上」と呼ばれる奇跡の日本一を成し遂げてらいる。(「パ・リーグ インサイト」望月遼太)

(記事提供:パ・リーグ インサイト)

© 株式会社Creative2