【明治維新鴻業の発祥地、山口 今年は大村益次郎遭難から150年】  No.194

▲大村益次郎両親の墓(秋穂西)

(9月18日付・松前了嗣さん寄稿の続き)
 
郷里への手紙

 7月17日、江戸は東京と改められた。8月27日には天皇即位の大礼が京都御所の紫宸殿で行われ、9月8日には、元号は明治となり、一元一世の制が定められた。

 これより先、8月28日、東征軍に対し米沢藩が降伏を申し入れた。続いて9月15日には仙台藩、22日には会津藩が開城降伏。23日には長岡藩、庄内藩、25日には、盛岡藩が降伏した。
 
 10月2日、益次郎は、東北平定の功により、朝廷より太刀料として300両と天盃、沙汰書を賜った。
 
 またこの日、益次郎は、父・孝益と妻・琴に手紙を送っている。次にあげるのは、彼が妻に宛てたものである。
 
 「一、月キウ金の残り千五百両送可候間、千両ハ上田庄蔵えあけ入用之節、御請取可成候。五百両は手もとにおき、たしかなるものにかし、或ハ田地おんもとめ被成候。一、春已来のほねおりに付、天朝より御太刀代として三百両下し賜り候。そのまゝ父上え御あけ可成候。年よりは何時死するも斗りがたく候間、命ある間に早々御遣わし可成候。最もたしかなるものをおんつかはし之事」
 
 この時、母の梅は、1865(慶応元)年、66歳で没していた。 

(続く。次回は10月2日付に掲載します)

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