「表現の不自由」と闘った女たち

By 江刺昭子

平塚らいてう(『青鞜』創刊のころ)

 「あいちトリエンナーレ2019」の企画展「表現の不自由展・その後」をめぐって、政治家の発言が波紋を呼んだ。河村たかし名古屋市長が中止を求め、当事者ではない黒岩祐治神奈川県知事までが、自分なら「開催を認めない」と発言して物議をかもした。黒岩知事はフジテレビの元キャスター。仮にも報道する側にいた人が、表現を抑圧する側に立とうというのだろうか。

 戦前の知事職は官選で、内務省という最強の官庁を後ろ盾としていた。その内務省は、検閲という強大な権力を用いて表現の自由を圧殺した。黒岩知事の発言は、官選知事の姿に重なる。

 1世紀以上前、1911年9月に創刊された『青鞜』メンバーの「表現の不自由」との闘いは参考になるかもしれない。

『青鞜』創刊号

 『青鞜』は、女の手になる女だけの文芸誌として出発した。主宰者の平塚らいてう(本名・明=はる)による「創刊の辞」は知られている。「元始、女性は太陽であった。真正の人であった」

 それに続く言葉も大切である。

 「今、女性は月である。他に依って生き、他の光によって輝く、病人のような蒼白い顔の月である」

 自己を持たないことが女の美徳とされた時代に、自我を肯定し、既成概念をとり去って抑圧のない人間として立ちあがれと言う。これにこたえて青鞜社の社員たちは、家制度下で恋愛や結婚を制限された苦しい体験を自分の言葉で語り始めた。単なるお嬢さま芸でないのは明らかだったから、内務省は当初から「危険思想」とみていたようだ。

 翌年4月には早くも発禁処分になり、警察に雑誌を押収されている。荒木郁の作品「手紙」が原因とされる。人妻から若い愛人にあてた手紙形式で密会の喜びを語った短編で、発禁理由は出版法第19条の「風俗壊乱」、社会の風紀を乱すというのだ。

 メディアもこぞって青鞜社員をバッシングして、権力に媚びた。尾竹紅吉(本名・一枝)がカフェ兼レストラン「メイゾン鴻の巣」で「五色の酒」(カクテルのこと―筆者注)を飲んだように書いたり、吉原見学を吹聴したりしたのがきっかけ。

 『読売新聞』、『東京日日新聞』などが「新しい女」、「新しがる女」などのタイトルで、あることないこと織り交ぜて刺激的な読み物に仕立てあげ、10回も20回も連載した。

茅ケ崎海岸で青鞜関係者。前列中央がらいてう、右隣が尾竹紅吉、うしろ左端が荒木郁(『青鞜』1912年9月号)

 取材にきた記者に、紅吉は「五色の酒」は飲んでいないと言ったが、それでは「やじることも出来ないし、非難の材料にはなりませんから新聞はおかまいなしにガアガア書きたてたのです」。「こんな記事は大うそです」と言っても、一行も訂正してもらえなかったと、戦後になって回想している(『世界』1956年3月)。

 社会の規範からはみだした者をたたきのめす体質は、今も変わらずメディアにあり、ネット空間はそれを増幅している。

 社員たちが動揺する中で、らいてうは『中央公論』(13年1月)に寄稿して、毅然と自分は「新しい女」だと宣言し、「旧道徳、法律を破壊しよう」と書いた。『青鞜』でも特集を組んだ。これを受けてメディアで論議が活発になり、「新しい女」は不良少女というマイナスイメージから、新時代を担う女というプラスイメージに転換していく。そして、この年『青鞜』は文芸集団から思想集団へと大きく変貌する。

 弾圧は続く。福田英子の「婦人問題の解決」(13年2月)が原因で再び発禁。らいてうが「世の婦人達に」(同年4月)で、良妻賢母主義を否定し、現行の結婚制度に服することはできないとしたことで警察の注意を受け、続けて刊行した評論集『円窓(まるまど)より』も発禁になった。

 警察部門を所管した内務省警保局長が語っている。「近頃往々青鞜その他の女子文学雑誌に甚だしく淫乱な記事を掲げ又従来の慣習及び道徳に反対したりする文章がみえるのは誠に困ったものである…当局者としては出来る限り危険思想の撲滅に力むるの外に方法はないのである」(『大阪朝日新聞』同4月23日)。

 「ホワイトキャップ党」を名乗る者から編集部に脅迫状が届き、「青鞜社中第一期に殺スベキモノ」として4人の名が挙げてあった(青鞜13年6月「編輯室より」)。らいてう自宅の書斎の窓に何者かが石を投げつけたのもこの頃。

 それでもめげずに、貞操や同性愛や産児制限や堕胎など、それまで女が口にすることがはばかられたテーマを取り上げた。それは他の雑誌メディアも巻きこんだ幅広い論争になり、女性問題を社会問題へと押し上げた。

 16年2月に終刊したが、『青鞜』が刊行された4年半は、睦仁天皇が死去して明治が終わり、大正に変わった時期と重なる。この時期に最も世間を驚かせたのは、天皇の葬儀が行われた12年9月13日に陸軍大将乃木希典と妻静子が殉死した事件である。2人の死は「忠」の見本として美化されたが、個を封じこめた死と、個の発露にこだわった女たちの生は対照的だ。

 大正デモクラシーという自由主義の時代をひらくのに一役買ったのは女のほうである。彼女たちは時代とまっすぐに向き合い、古い権威や制度と衝突しながら自らを成長させてもいる。

 表現の自由は民主主義の根幹である。沈黙は現状を容認することになる。「表現の不自由展・その後」の中止について衆知を集めて議論しよう。閉塞状況の時代に、『青鞜』と同じように、風穴をあけたい。(女性史研究者・江刺昭子)

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