横浜銀蝿完全復活!生涯現役ツッパリの人生哲学 ② 1981年 11月8日 Johnny のシングル「ジェームス・ディーンのように」がリリースされた日

【①からの続き】

「横浜銀蝿40th」完全復活。今回の目玉のひとつは、1983年の解散以来バンドを離れていたリードギター Johnny の参加だ。彼は横浜銀蝿解散後もソロ活動をしていたが、1988年30歳で音楽活動に終止符を打ち、キングレコードに就職。ディレクターとして、中山美穂、的場浩司らの作品作りに携わる “裏方” となった。そこで着々とキャリアを積み、2013年7月からは、キングレコード上席執行役員と、兼務で関連会社のベルウッドレコード代表取締役社長に就任している。

今や30年以上も音楽活動から退き、社長業が忙しい。まさかもう一度銀蝿に復帰するとは思っていなかったと言う。それが昨年11月、銀蝿担当ディレクターだった元ジャックス水橋春夫氏逝去にあたり開かれた “送る会” で、翔に20年ぶりに再会。初めて復帰を誘われたことで、運命が変わった。翔の誘いを受けての第一声は、

「いや、無理だよ。俺ギター弾けないもん」

サラリーマンとなった Johnny は、20年以上ギターを弾いていなかったのだ。

しかし、その後考えてみてこれは、「音楽の恩師とも言える水橋さんが、翔と自分を再び引き合わせてくれたのかなと思った」そうだ。それならこのチャンスに乗るべきではないかと考えた Johnny は、“ゴルフクラブをギターに持ち替え” 猛練習を開始。今年の3月には、初めてのバンドリハーサルをした。

「プレイ的にはかなりひどかったと思うけど、ただただ、楽しかった。デビュー前の、毎日必死に練習していた頃を思い出した。このメンバーとまたバンドをやりたい!と思った」

と、Johnny は「横浜銀蝿40th」参加を決意した。

「ただただ楽しい」

バンドに関して彼は、よくその表現を使う。デビュー前、37回もオーディションに落ちて凹まなかったのかと聞いた時も、「バンドやってることが、ただただ楽しかった」。バスで重いギターケースを担いで行ったオーディションの帰り道も、Johnny と翔はずっと、「楽しかったね!」と言い合っていたと言う。情景が浮かんでくる、キラキラした青春の一コマだ。

若い頃、とことん音楽をやってスターダムに乗り、スパッとやめて就職。次はその世界で、着々と成果を上げて出世する。Johnny の人生は、なんて理想的なんだろうと思ったが、順風満帆なことばかりではなかったようだ。

「サラリーマンになって、最初はディレクターだったのに、40ちょっと前に今までやったこともないアニメの宣伝業務に配属された。新入社員がやるような業務をやらされて。それで辞めたヤツもいたけど、俺は悔しかったし、自分のためにもなるのかなって一生懸命やった。その結果人脈ができて、後々の仕事にも役立った。腐らずにやればいつか自分に返ってくるんで、何事にも真摯に向き合った方がいい」

今、「横浜銀蝿40th」の活動に向けて動き出した Johnny は、こう付け加えた。

「30年以上サラリーマンやってると、イヤでもやらなきゃいけないってことが多い。でも銀蝿をまたやることになって、“今俺、またやりたいことやってるんだ!” って思えて、めちゃくちゃ楽しいんだよね」

再び Johnny のハートは、輝き出している。「楽しかったね!」と言い合った帰り道、デビュー前の必死な練習。あの青春時代と、同じ輝きを放っている。大人は楽しいことばかりではない。時には無念な選択や我慢も余儀なくされる。つらくてもいつか時が来て、Johnny みたいにキラキラした顔で笑って、「今、やりたいことをやってるんだ!」って言えるのなら、この現在の毎日の積み重ねにも、意味があるのではないか?「腐らずにやればいつか自分に返ってくる」、そんな先達の言葉は心に爆音で響き、脳内のカーステが、Johnny のあの歌を鳴らした。

 いつも俺たちキズだらけ 
 汗にまみれて陽がくれる 
 だけどハートは ジミーのように 
 とびきりいかした lonely angel 

(続く)

歌詞引用:
Johnny / ジェームス・ディーンのように

カタリベ: 上村彰子

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