第255回「躍進するロフトの記事を放棄し、小説を書いている」

この10月以降、ロフト系店舗がまた増えるという。躍進するロフト。以前のコラムでは多分この事を書いただろう私は、それを放棄してまたあてどもない小説『命』の続きを書き始めている。

頑張って書いているこの小説だが、ほとんど評判が聞こえてこない。困った、続けるべきか、やめるかで迷っている。

小説『命』ー7「人間は生き、それから死ぬのだ……」

私たちはあまりにも重い話題を喋りすぎたようだ。「疲れた」と思った。その夜、夏子さんと別れて、私はひとり新宿の外れにある木造モルタルのアパートへ戻った。どうやってホテルを後にしたのか覚えていない。

雨と雲が破れて月が出た。都会のビルの谷間に、のっそりと。長い秋の夜更けはとても静かだ。誰も知るまいと月に微笑する。私のいるところだけがぽつんと明るく、ぽかーんとしている。永遠の眠りにつくように寝付いた。目覚めると誰もいない。

「お前はいずれ死に至る。なんの記憶も残さないように」

神の啓示の夢を見た。明るい陽の光がやってきて、再び「今日」に目覚めた。

午後、新宿の病院に4時間の人工透析を受けに行った。そのままサウナに行って1時間以上だろうか相当な汗を抜いた。苦渋の透析治療と汗をたっぷり流し、久しぶりに気持ちは晴れ晴れとした。昨夜から、今後私たちに起こるだろうことに、私の胸はよくわからない期待に満ちていた。体が軽い。退屈な透析の最中にも夏子さんのことを考え続けている自分がいた。

「こんな私でも恋することってあるのだ」ということを実感していた。もう一生涯、私は人に恋をするということはあり得ないと思っていた。それが老齢の一方通行で運命的に短い「恋」はすでに決定している。「自分にはまだ生きる希望が残っている。力を出さねば、この恋のためにも」と思った。勇気が出てきた。

青梅街道に面した大学病院の待合室で力を抜いて仰向けになって、流されてゆく。それから街に散歩に出たが、どうにも歓楽街はいつも孤独に悲しくさせる何かがある。私はコンクリートジャングルの小さな公園でひとり白っぽい往来を眺めながら、次第に年老いてゆく人生を感じている。彼方に夏子さんの住んでいるホテルがそびえ立っている。彼女のホテルに行くのが怖かった。勇気を出さねば……。

きっと夏子さんは私を待っているに違いないと思っていたがなかなか足が一歩前に出ないでいた。

私たちに残された時間は半年。夏子さんの具合が悪くなればいつだって再入院の可能性はある。私たちに「何かを成就する時間」は三ヶ月もないかもしれないのだ。そして彼女は病院で尽き果てるのだろうか。

私には自分が死のうとさえ思わなければまだ時間はある。「悔いのない最後を過ごしたい。だからひとりになった」という彼女がいじらしかった。私は考えあぐねていた。彼女が最後の最後、どのように過ごしたいか私にはわからない。多分、夏子さんも残された日々をどう過ごせばいいのか迷っていたのではないだろうか。どっちにしても、彼女の「終末」はすぐそこまで近づいているのだ。

夕方まで小さな公園でグズグズしていた。夏子さんのホテルに行くにはやはり勇気が必要だった。そんな時、夏子さんから「一緒に夕食をしましょう」というメールがあって、私はようやくホテルに行く決心がついた。嬉しかった。とんでもないところから青春が見えた。坂道をゆっくりと上がった所にホテルはあった。

部屋のダイニングテーブルに腰をかけるなり、私は昨夜から考え続けていることを言った。

「人生がいつどこで頂点を極めるのか、最善の形で人生を送ることを計画しよう。あれから今の僕に何ができるのかを考え続けていました」

まずはビールを口にする前に言った。

「ありがとう。嬉しい。私もね、長いこと考えあぐねていたの」

「まさにこれから命果てるまでを、自分の歴史で一番楽しい時間にしたいのです。あなたの癌が完治できないことはよくわかった。僕は昨夜、決意したんです。あなたが生き続けている間、僕は誠心誠意あなたをフォローしたいのです。何かやり残したテーマはありますか」

「ごめんなさい。もう少し時間が欲しいの。今の私が言えることは、人生をもっと自分らしく生きたかったとは思うわ。人生、決断一つなことが必要だった」

「二人で世界一周をしますか、一度は訪れてみたかったNYやガラパゴスやマチュ・ピチュや南極に……ちょっと陳腐ですよね」

「残りの生の時間を知ることになれば、そうした選択を喜んで受け入れ、人生を最も有意義な形で終えられるのかもしれない。今がその時なのね。世界一周、それもやってみたかったことの一つではあったわ。私は世界を知らない。でも、あなたの病気は人工透析を受けてさらにはサウナとかで汗を流さないとダメなのよね?世界征服はちょっと無理ね」

「僕はあなたの最期を見守るまで、自分のこの命を生きさせたい」

確かに彼女と出会うまでの私は、今日か明日、自らの命を絶とうと思っていたのだから。もう、私の命はどうでもよかった。

大型の台風が東京を直撃した暴雨風の深夜、新宿の高級ホテル。非日常空間のホテル暮らし。部屋は意外とシンプルで、コンパクトな2LDKだった。高いところにいる。夏子さんは何を考えているのか、その夜、嵐のような大粒の雨が降った。眼下の新宿中央公園の緑が激しく揺れた。秋はさらに深くなった。

夏子さんはホテルのルームサービスを頼んで、テーブルには色とりどりの食器が並んだ。私はコップ一杯のワインを飲んだ。豪華そうな食事には手をつける気になれなかった。

「後悔していることってありますか。君は何を考えていますか。重そうな瞼の下から何を見ていますか」

「もう少し早く検査をしていればよかったのかなって。私って可哀想なの……」

突然、夏子さんは大声で泣きじゃくった。

「でもね、私、強いのよ。末期がんで余命半年という重たい荷物を背負った自分を受け入れられるようになったと思うの」

泣きながら、涙に覆われた彼女は笑顔になった。私も涙があふれ出た。

「貴方と出逢ったこと、幸せです」

窓に向かって消え入るような声が切れ切れで聞こえた。

軽い沈黙があって、ふと夏子さんの部屋の隅にアコーステックのギターが二本ディスプレイ風に立てかけてあることに気づいた。ギブソンやマーチンのギター、それに、譜面も見つけた。

「え、ギター弾けるんだー!すごーい!」という私の言葉に、「あー、昔ちょっと弾いてたんだよね」とやや詰まり気味の夏子さんの言葉。

「貴方の歌声を聴きたいな!」

私は思わず叫んでしまった。

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