【明治維新鴻業の発祥地、山口 今年は大村益次郎遭難から150年】 No.195

▲木戸孝允旧宅跡(糸米)

(9月25日付・松前了嗣さん寄稿の続き)

木戸孝允の手紙

 10月24日、益次郎は軍務官副知事となった。

   11月29日には明治天皇が浜御殿に臨幸、軍艦に試乗した。この時、益次郎も関与し、翌日、褒美品を下賜された。

   また、12月12日には木戸孝允とともに新政府の会計、兵制の基礎確立を協議した。

   これより先、岩倉具視は、今後の政務について太政官で評議を乞うべき件を10月21日付けで意見書として提出していた。その内容は、軍制、財政、学制、刑律の4大綱をはじめ、議事院、奥羽の施政、蝦夷地の開拓、奥羽越後の降伏諸藩の処分、戦功、外国取り扱い等の広範囲にわたった。これは、具視の眼識の高さを示すものであった。

   その頃、長州藩内では、木戸孝允が廣澤眞臣や前原一誠と意見を異にすることが多くなった。

   彼には先見の明があった。明治天皇が東京に着いた頃から益次郎を頼りにし、彼の経綸等について意見を求めることが多くなっている。

   「今朝條公(三条実美)より御書簡来る。箱館の一条なり。よって大村に至り、およそ前途の策を定む-」

   このように、11月6日、三条実美に宛てた手紙の中にも、益次郎の名前が記されている。

(続く。次回は10月9日付に掲載します)

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