差別のない、面白い世界へ 追想・網野善彦さん  死後15年、アニメ「もののけ姫」にも影響

網野善彦さん

 「学者が死後に振り返られないのは、当然といえば当然」。歴史学者網野善彦さんを取り上げた原稿を見た人がこういった。果たしてそれでいいのか、と思ったが、現実はその通りかもしれない、とも思った。独自の「網野史学」で1980年代に「中世史ブーム」を巻き起こし、90年代には宮崎駿監督のアニメ映画「もののけ姫」にも影響を与えた網野さんが亡くなって15年。網野さんの出身地の山梨には、少なくとも1人は、果たしてそれでいいのかと、現実を問い直す人がいる。

 その人は、50年近く山梨で民俗学を研究してきた杉本仁(すぎもと・じん)さん。元高校教師で、倫理を教えていた。「柳田国男と学校教育」「選挙の民俗誌」など著作もあり、都留文科大の非常勤講師も務めた。

 今年、山梨で網野さんの業績を振り返る動きは、杉本さんが郷土誌「甲斐」で連載している論文「宮本常一と谷川健一、そして網野善彦」以外、管見の限りない。山梨県や、出身地の笛吹市は追悼イベントをいずれも「予定していない」、網野さんが設立に大きく貢献した県立博物館も「私たちが率先して計画し、その業績を振り返る必要があるが、その予定はない。来年の開館15年で、なんらかのことができれば…」と言葉を濁す。

 杉本さんは連載第1回をこう書き出している。「山梨県の学問進展に力を傾けたのが網野善彦である。だが、死後、山梨県内で論じられることは、その営為に比して多くない」。中世史の門外漢である杉本さんがあえて網野論を書くことで、網野さんの謦咳(けいがい)に接し、薫陶を受けた人々を「挑発し、『甲斐』誌上をはじめ山梨県内でもっと網野論が活発化することを念じ、わずかばかりの民俗学の知識から網野善彦を照射」したい、と。近年の論壇で少なくなったように感じるこのような挑戦的な姿勢も、現実を問おうとするスタンスの表れだろう。

 網野さんは1928年に山梨県の錦生村(現在の笛吹市御坂町)生まれ。1歳で東京市麻布に転居し、1947年に東大に進んでいる。在学中にマルクス主義の書物や、丸山真男、石母田正ら、当時脚光を浴びていた学問を積極的に吸収した。

 卒業後は神奈川大学日本常民文化研究所に入ったが失業。不安定な生活を送った後、都立高教諭を経て、名古屋大助教、神奈川大の短期大学部教授などを務めた。自身のルーツである山梨に頻繁に足を運び、歴史研究はもとより、県史の編さん事業で中世部会長を務め、県立博物館の設立にも基本構想検討委員長として携わった。その思想は、おいで人類学者の中沢新一さんや、民俗学者の赤坂憲雄さんに受け継がれている。赤坂さんは、網野さんの訃報に接した2004年、共同通信への寄稿で、網野さんの歴史家としての「原風景」が豊かな自然が残っていた山梨であると指摘し、網野史学の根源だったと紹介している。

 網野さんの名前を世に知らしめたのが、1978年の代表作「無縁・公界・楽」だろう。歴史の表舞台に登場しない人々や、その場にあった、括弧付きの「自由」と「平和」。「差別」の中に封じ込められなかった、人々の生命力を鮮やかに描き出した作品で、学術書としては異例の大ヒットを記録している。詳しくは、岩崎稔さん、上野千鶴子さん、成田龍一さんが「戦後思想の名著50」に選んだ本書に譲るが、これにより網野さんは時代の寵児(ちょうじ)となる。

 その後も、日本の単一民族史観を否定し、「民衆」に根ざした歴史学を目指して筆を執った。その史学に対しては、否定から肯定まで幅広いけれども、それは網野さんが注目を集め、無視できない存在であったことの証左であろう。
 
 「もののけ姫」の大ヒットを受けて、宮崎駿さんと対談した際の様子が「『忘れられた日本人』を読む」に収録されている。網野さんが、北の果てに隠れて住む一族の長となるべき主人公アシタカの設定が「『日本国』を相対化」している点や、「タタラ場」が学問的に「まさしく『都市的な場』」となっていることなどを称賛すると、宮崎さんは「わからないところは僕の勝手な空想で埋めた」「あまりリアルにすると、貧乏になっちゃいますから」と応じている。
 
 これら、網野さんの影響力を考えると、改めて疑問が湧いてくる。なぜその業績が振り返られないか。その答えには、網野さんが山梨で進めていた民俗学の調査が、手がかりをくれる。杉本さんによると、網野さんは笛吹川流域で、川に石を投げ入れ合う「まつり」の調査をしていた。それは、石を投げ入れることで、良きことを招こうとする、一種の祈りだったと網野さんは分析した。これについて杉本さんは「権力が腐敗しているとき、一つの石ころが投げ込まれるような些細なことで、それが崩壊するということを描きたかったのだろう。その崩壊の先に、面白い世界が現れるんじゃないかと網野さんは考えていた」とみる。「まつり」を現代社会の地続きとして捉え、今の原風景として位置づける視点が、そこにはあった。

戦後を代表する歴史学者の一人、網野善彦さんを分析した論文について語る杉本仁さん=7月、甲府市

 そして杉本さんは、振り返られない理由をこう結論づける。「『日本』を見直そうとして議論をふっかけるような時代じゃなくなったんでしょう」。いつからか誰もが、祈りの石を川に投げ入れることをやめたのだ。「例えば網野さんは、差別というのがどうして出てくるのかを明確にしようとし、その文脈の中で天皇制の問題を論じている。他方、今の世の中は誰もが、代替わりでお祭り騒ぎです」
 

中央が網野義彦さんの墓。左側が本家の墓

 戦後いち早く自主憲法の制定を唱えた自民党参院議員の広瀬久忠。山梨を地盤とした金丸信・元自民党副総裁を支えた山梨中央銀行頭取の名取忠彦。網野さんの親族には、このような保守系の人物が多数いた。網野家も裕福であった。そんな中、貧困に沈んだとしても、差別のない、面白い世界を見据えた網野さん。現在は笛吹市の寺院で静かに眠る。本家の立派な墓の隣で。(共同通信=川村敦)

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