爆沈した船の名前さえ知らない 徴用工とは何か(3)

By 佐々木央

1942年、貨物船として使われていたころの浮島丸=シンガポールで横浜市の福井静夫さん撮影

 大型船が湾内にゆっくりと入ってきた。敗戦から9日後の1945年8月24日、午後5時過ぎの京都・舞鶴湾。予兆はない。

 突然、湾内に「ドカーン」という大音響が響き渡った。船は中央が盛り上がって「へ」の字になり、次に「V」の形になって、前へ進みながら沈んでいった。たくさんの人がこぼれ落ちるように、船から海中に落ちていく―。(47NEWS編集部、共同通信編集委員佐々木央)

 死者は500人以上とされる。「以上とされる」と書くしかないのは、正確な数が分からないからだ。日本の海難史上、最悪とされる1954年の洞爺丸事故が死者1155人。それに次ぐ規模なのに、国は死者の数さえ把握していない。また、不思議なことに、当時すべての新聞がこの爆発・沈没について沈黙した。

 船名「浮島丸(うきしままる)」4730トン。もともとは民間の貨客船だったが、海軍に徴用され輸送船として使われていた。戦争は民間船にまで、徴用から爆沈へと、受け入れがたい運命を与えたのだ。

 ■港に響く「マンセイ!」の大合唱

 浮島丸がこのとき、運んでいたのは何か。

 浮島丸はその2日前、8月22日の夜、青森県下北半島の大湊港から出航した。大湊は陸奥湾に面した良港である。出航前の光景を「下北の地域文化研究所」所長だった斎藤作治が、元海軍飛行予科練習生・赤田年巳から聞き取り、次のように記録している。

 ―赤田さんが浮島丸に乗って釜山港に帰ろうとしていた朝鮮人を見たのは終戦から間もなくの日、潜水艦基地からでした。大湊海軍施設部の朝鮮人労務者の宿舎が潜水艦基地から近い宇曽利川(うそりがわ)にあったが、赤田さんが見たのはおそらくその人たちであったと思われます―(1994年8月、地域誌「はまなす」創刊号))

 斎藤はそう説明した後、赤田の証言をそのまま採録する。

 「黒に近い濃紺の作業服を着た朝鮮人が大勢トラックに立ったまま乗っていました。2台や3台ではなかったと思います。そうだ。同じ色の帽子もかぶっていました。潜水艦基地には軍艦が1隻係留されていたので、おそらくここを自分たちが出航する菊池桟橋と勘違いしたのでしょう。こちらに向かって<マンセイ! マンセイ!>と大合唱が始まりました。ものすごい迫力でしたね」(同)

 浮島丸が乗せていたのは戦争中、朝鮮半島から連れてきて下北半島で働かせていた人たちや家族のうち約4千人とされる。実はこれも人数がはっきりしない。軍はその人たちを「釜山港に送り返す」として集め、船に乗せた。

事件から70年の追悼集会。手前は「殉難の碑」=京都府舞鶴市

 8月22日という出航日は、偶然であろうが、1910年の日韓併合条約調印の日である。朝鮮の人たちにとっての「屈辱の日」に船上の人となり、それは帰還への旅立ちの「歓喜の日」となるはずだった。「マンセイ!」の大合唱に、彼らの抑えがたい思いを聞く。

 ■大間鉄道のタコ労働者はいたか

 では、この人たちに大間鉄道のタコ部屋労働者は含まれていたのか。大間鉄道の工事は1943年12月に中止になったから、その前後に飯場は消えている。その時点でタコ部屋の労働者は解放されたと考えれば、含まれていないということになる。

 だが、せっかくの労働力を手放すはずはない。他にも人手が必要が現場はいくらでもあった。昨年死去したノンフィクション作家金賛汀は、著書「浮島丸 釜山港へ向かわず」で、当時の下北半島の朝鮮人飯場20カ所以上を図示、さらに大湊警備府が本土決戦に備え、下北半島の軍事要塞化を急ぎ、大規模な防空壕、地下倉庫、隧道を建設していたと述べる。

 そして、大間鉄道のタコ部屋について「そこで働いていた朝鮮人労働者は、そっくり、大湊警備府の防空壕作りに転用された」とする。そうだとすれば、大間鉄道のタコ労働を生きのびた者が、浮島丸に上船した可能性は高い。だが金賛汀は、転用を裏付ける資料的根拠を示していない。

 浮島丸出航前の朝鮮人たちの風景を聞き取った斎藤作治らのグループは「アイゴーの海―浮島丸事件 下北からの証言―」を出版している。なかに「証言の部」があり、28人の記憶が刻まれている。

 その1人、むつ市の郷土史家・鈴木和一の記録に注目したい。鈴木はまず、戦前に補助憲兵だった知人(原文は実名)の話を紹介し、朝鮮人労働者募集の実態に迫る。

 「労務者募集のことで朝鮮に渡ったことがある。その時、面事務所(日本の村役場にあたる)に、人数の割り当てをして、何日までに集めるようにあらかじめ頼んで置くんだが、予定通りに集まらない時には員数を合わせるために、強制的に連行した者もあった。そんなこともあったので、日本へ向かう途中で汽車から飛び降りる者や、海のど真ん中で飛び込んだ者があった」

 海のど真ん中に飛び込んだら、よほど泳ぎが達者でも生存はおぼつかなかっただろう。

 ■「祖国へ帰る」の期待虚しく

 鈴木はさらに、大間鉄道着工に先立つ大湊線(1921年開通)工事のころ、大湊の海軍病院で働いていた看護師の談話を記す。

 「大湊線の工事では多くの朝鮮人と日本人のタコがひどい労働に従事させられていました。それは、まさに奴隷そのもののように残酷な重労働を強制されていました。鬼のような棒頭(ぼうがしら、監視兼人夫頭―筆者注)の厳しい監視づきで、怠けたり反抗したりすると棒頭に殴り付けられて、よく手や足の骨を折られて治療にかつぎ込まれてくることがありました」

 強制労働が行われた時期についての重要な証言だ。鈴木は文末をこうまとめる。

 「これらの事実から朝鮮人への迫害は、ひっ迫した太平洋戦争の特別な状態がもたしたものではなく、今から82年前の日韓併合による朝鮮の植民地支配からずーっとつづいていたものだということが理解されます」

 「証言の部」では他にも、大湊港の1万トンドック建設に従事した宇曽利川(うそりがわ)飯場、樺山(かばやま)飛行場建設の飯場、安部城(あべしろ)鉱山の飯場における朝鮮人労働者が、悲惨な境遇で働いていたと、地元の人たちが明かしている。

 かろうじて分かっていることをつなげれば、戦争中、下北半島の各地に奴隷労働や差別に苦しむ朝鮮の人たちがいた。そういう人を含む数千人が、1945年8月22日、「ようやく祖国に帰れる」と信じて浮島丸に乗った。だが浮島丸は2日後、舞鶴湾で爆沈し、おびただしい人が亡くなった。

 ■誰を乗せ誰を死なせたのか

 日本政府はこの事件について、対外的な謝罪どころか、まともな調査もしていない。それゆえ、爆発原因も科学的に確定されていない。国による朝鮮人の帰還事業が緒に就くのは9月に入ってからだが、なぜ大湊警備府は帰還をこれほど急いだのか。本当に釜山に行くつもりだったのか。

 そしてなにより、誰を船に乗せ、誰を死なせてしまったのか。

 だが、日本人の多くは、浮島丸の名前すら知らない。=終わり

 (引用文の漢数字は洋数字に改めた。表記は原文のまま、改行は適宜省略した)

徴用工とは何か(1)

徴用工とは何か(2)

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